下山甲斐守城(しもやまかいのかみ)
 別称  : 下山甲斐城、比奈知城
 分類  : 山城
 築城者: 下山甲斐守
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口
 交通  : 近鉄大阪線名張駅からバスに乗り、
      「比奈知学校前」下車徒歩15分


       <沿革>
           永正三年(1506)に下山甲斐守重澄によって築かれ、嫡男重信が城主となったと伝わる。
          下山氏は甲斐武田氏の庶流で、応仁年間(1467〜69)に下山八郎重定が奈垣村に住した
          のにはじまるとされる。その後、下山氏は伊勢国司北畠氏に仕えて勢力を拡大し、自領の
          北限である比奈知に新城を構えるに至った。
           永禄十一年(1568)、下山甲斐守は北畠具教が隠居城として丸山城を築こうとしたとき、
          伊賀衆の同意を取り付けたことで具教から賞されたとされる。この甲斐守は、年代的にみて
          重澄・重信父子よりも後代の当主と思われる。
           天正六年(1578)二月、甲斐守は養父具教を謀殺して北畠家中を掌握した織田信長次男
          の北畠信意(後の織田信雄)を訪問し、伊賀侵攻の際の道案内を申し出た。これを受けて、
          信意は丸山城の修築にかかったが、伊賀衆に夜襲され人夫衆や現場監督の滝川雄利軍
          は敗走した。下比奈知の甲斐守城については、これより以前の天正年間初めごろに築かれ
          たとする説もある。
           面目をつぶされた信意は、翌天正七年(1579)九月に独断で伊賀へ攻め込んだ。しかし、
          伊賀衆に迎撃されて惨敗し、信長の激しい怒りを買った(第一次天正伊賀の乱)。
           甲斐守については、信雄に切腹させられた、奈垣村の自城に隠棲した、天正九年(1581)
          の第二次天正伊賀の乱で伊賀衆に加わり戦死したなど、諸説あり定かでない。下比奈知の
          下山甲斐守城のその後についても不明である。


       <手記>
           下山甲斐守の城は、下比奈知のほか本領の奈垣にもあり、『日本城郭大系』では前者を
          「下山甲斐城」、後者を「下山甲斐守城」と呼び分けているほか、比奈知城・奈垣城とする
          場合もあるようです。下比奈知の甲斐守城は、名張川と比奈知川に挟まれて細長く伸びる
          峰筋に築かれています。城内へは、西麓の旧家と旧家の間から、踏み分け道程度で分かり
          にくいものの山道が付いています。消火栓の標識が目印です。
           谷筋の道を登っていくと、まもなく大手とみられる土塁や虎口跡に至ります。そこから右へ
          向かうと主郭となり、左へ行くと、後述する馬場跡とされる空間があります。
           主郭の手前にはもう1つ曲輪があり、武者隠し状に土塁が張り出していて平入りできない
          ようになっていているのが特徴です。一方で、主郭自体は堀も浅く土塁も低く、恃むに足る
          感じではありません。
           主郭の背後にも曲輪があり、その土塁の奥には、伊賀では珍しい尾根筋の堀切が穿たれ
          ています。堀切の先には小ピークがあり、『三重の山城 ベスト50を歩く』では第V郭として
          扱っていますが、削平はきわめて甘く、曲輪形成は不明瞭です。小ピークの先には、さらに
          2条の堀切が少し離れて設けられており、そのうち遠い方には竪堀も付随し、ここが最後尾
          とみられています。
           翻って、大手の左手には広大な空間があり、その中ほどに塚状の土塁が1基みられます。
          さらに峰先側へ進むと、ほぼ横一文字の土塁と堀が現れ、喰い違いの虎口を出ると先述の
          馬場跡と呼ばれる広大な空間となります。ただし、馬場跡自体には防御設備などは設けられ
          ていないため、横一文字土塁と堀が城の北限といえるでしょう。
           このように全体で見ると規模は大きく、伊賀国内では技巧的な城といえる一方で、主郭の
          貧弱さがたいへんアンバランスかつ対照的に映ります。おそらく、永正年間に築かれた当初
          は主郭のみの典型的な伊賀式城館で、後に前後に城域が拡張されたのでしょう。
           いつごろの改修かについては、私は甲斐守が具教の賞賛に浴した永禄十一年から、天正
          七年の第一次天正伊賀の乱までの間だろうと考えています。このころ、下山氏は北畠氏の
          配下として存在感を高めており、伊勢の築城術を取り入れて城を拡張したとする推測は充分
          に成り立つでしょう。
           とくに奈垣の南には、天正四年(1576)の三瀬の変で具教が信意に殺害された際、具教の
          弟具親が再挙を図った北畠具親城があり、下比奈知の甲斐守城とは非伊賀式の山城という
          点で共通しています。天正四〜七年の短い期間に改修が施されたとすれば、主郭が貧弱な
          ままアンバランスな状態で残されたというのも、説明がつくように思います。
           ちなみに、やはり甲斐守自身は第一次天正伊賀の乱の後に、殺害されたか少なくとも伊賀
          からは逃亡したのではないでしょうか。伊賀衆からすれば、もとから北畠家臣だった伊賀守を
          むざむざ生かしておく理由が見当たりません。その際に、下山氏の城館も廃されたとみるのが
          妥当と感じます。

 下山甲斐守城遠望。
登城口付近のようす。 
 大手虎口か。
大手土塁か。 
 主郭前方の曲輪の土塁。
同じく武者隠し状の空間と土塁。 
 主郭北東隅の堀と土塁。
主郭東辺の土塁。 
 主郭内のようす。
主郭の土塁。 
 主郭背後の堀切。
主郭後方の曲輪と土塁。 
 主郭後方の曲輪背後の堀切。
堀切の先の小ピーク。 
 小ピークの先の堀切。
同じく2条目。最後尾とみられる堀切。 
 最後尾の堀切脇の竪堀。
大手曲輪の塚状土塁。 
 馬場との境の土塁。
同土塁の喰い違い虎口。 
 同土塁東側の空堀。
同じく西側の堀と土塁。 
 馬場跡のようす。


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