北畠具親城(きたばたけともちか) | |
別称 : 関岡城、具親城、神屋敷城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 北畠具親 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 近鉄大阪線桔梗が丘駅から車で15分 | |
<沿革> 天正四年(1576)に北畠具教が織田信長次男で養子の北畠信意(後の織田信雄)に謀殺 されると(三瀬の変)、具教の実弟で興福寺東門院院主の具親が還俗し、伊賀の吉原城主 吉原左京亮のもとへ身を寄せた。翌五年(1577)、具親は北畠旧臣を糾合し、伊勢国で挙兵 した。北畠具親城は、この間に築城されたものとみられる。 具親らは転戦奮闘するも、信意軍に各個撃破され伊賀への撤退を余儀なくされた。しかし、 具親城にも追撃の手が及んだため、具親は毛利氏を頼って備後国鞆の浦へ落ち延びた。 天正十年(1582)に本能寺の変で信長が斃れると、具親は再び伊勢国五箇篠山城で決起 したが、織田信雄軍に敗れて伊賀に退いた。その後もしばらく具親城に在城したと推測され るが、確証はない。同十二年(1584)に蒲生氏郷が伊勢に所領を得ると、具親はその客分に 迎えられたとされ、遅くともこのときまでに北畠具親城は廃城となっていたものとみられる。 <手記> 北畠具親城は、丘陵が複雑に入り組んだ山里の一端にあり、周辺には前出の吉原氏城の ほか、下山甲斐守城(奈垣)や吉村氏城、松島氏城など具親に同心した伊賀郷士のものと みられる城館が散在しています。城山へは、西麓に2軒ある旧家のうち、上手のお宅の西脇 から登山道が通じています。登った先は中心部から西に延びる尾根筋で、土塁に囲まれた 腰曲輪には、「城主」様が手書きで「ようこそいらっしゃいませ」と歓迎してくださっている板も 置かれていました^^ 北畠具親城の特徴は、伊賀式城館と非伊賀式の一般的な山城とのミックスになっている点 にあります。ただし、既存の伊賀式城館を拡張したとみられる下山甲斐守城(下比奈知)とは 異なり、一からアレンジして新造されたと推察されるのは特筆すべきポイントです。すなわち、 具親城では通常の伊賀式城館なら主郭を囲っているところの土塁の一辺を押し広げ、さらに 上段の主郭にしつらえています。そのうえ、主郭の背後には堀切で隔絶され、やはり土塁で 囲まれた独立性の高い曲輪を連ねるなど、伊賀の城としては規模も大きく防備も厳重です。 本能寺の変後の混乱期にあって、具親が天正十二年までここに在城していた可能性もあり、 蜂起のために急拵えではなく、ある程度完成された城だったと見ることもできるでしょう。 ちなみに、北畠具親城へ行くルートはつつじが丘ニュータウンを抜ける道とその東側谷戸の 旧道の2つがありますが、絶対的に前者がおすすめです。私は行きは前者で、帰りはなぜか ナビに後者を支持されたのですが、旧道はすれ違いも困難な薄暗い林道で、対向車が来た 時には一瞬「詰んだ」と思ったくらいでした。つつじが丘は名張市内にいくつもある開発地区 のなかでも最も人口が多いそうで、下から上までは比高100mほどもあり、真っすぐに延びる 道は果てが見えません。 |
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北畠具親城遠望。 中央の旧家の左手から登山道が延びています。 |
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中心部西尾根の腰曲輪と土塁。 | |
同上。 | |
「城主」様の歓迎の銘板がある郭内。 | |
二の郭虎口。 | |
二の郭のようす。 奥の土塁上が主郭。 |
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主郭のようす。 | |
主郭の土塁。 | |
中心部北尾根の腰曲輪。 | |
2段目の腰曲輪の土塁。 | |
2段目の腰曲輪のようす。 | |
主郭南隅の横堀。 | |
横堀付け根の虎口状地形。 | |
主郭背後の堀切。 | |
堀切背部の曲輪と土塁。 | |
同曲輪の脇に伸びる張り出し土塁。 | |
同曲輪背後の堀切。 | |
同上。 | |
堀切後背の曲輪と土塁。 | |
同曲輪背後の堀切。 | |
同堀切から延びる¬字状の竪堀。 |