下山甲斐守城(しもやまかいのかみ) | |
別称 : 奈垣城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 下山氏 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 近鉄大阪線桔梗が丘駅から車で20分 | |
<沿革> 奈垣の土豪下山氏の居城と伝わる。下山氏は甲斐武田氏の庶流で、応仁年間(1467〜 69)に下山八郎重定が奈垣村に住したのにはじまるとされる。その後、下山氏は伊勢国司 北畠氏に仕えて勢力を拡大し、自領の北限である比奈知に新城を構えるに至った。 天正六年(1578)二月、甲斐守は養父具教を謀殺して北畠家中を掌握した織田信長次男 の北畠信意(後の織田信雄)を訪問し、伊賀侵攻の際の道案内を申し出た。これを受けて、 信意は丸山城の修築にかかったが、伊賀衆に夜襲され人夫衆や現場監督の滝川雄利軍 は敗走した。 面目をつぶされた信意は、翌天正七年(1579)九月に独断で伊賀へ攻め込んだ。しかし、 伊賀衆に迎撃されて惨敗した(第一次天正伊賀の乱)。一説には、奈垣の下山甲斐守城は 乱後に伊賀の郷士から恨みを買った甲斐守が、追及を逃れて身を潜めるために築いたとも いわれる。ただし、甲斐守については信雄に切腹させられたともいわれ、天正七年以後の 消息は定かでない。 隠遁したとする説に従えば、甲斐守は同九年(1581)の第二次天正伊賀の乱で名誉挽回 とばかりに伊賀衆方として織田勢相手に奮戦し、討ち死にしたとされる。これが正しければ、 廃城は乱後のこととみられる。 <手記> 奈垣の下山甲斐守城は、奈垣地区でも最奥の、三方を谷戸に囲まれた峰上にあります。 周囲には人家が数えるほどしかない隠れ里のような場所で、甲斐守が隠棲目的で築いた とする説は、こうした現状の地勢から敷衍して自然発生したものではないかと感じています。 奈垣地区に、この城に代わる下山氏の居城跡が伝わっていない以上、重定が初めて入部 して以来の本拠地が、ここであったと見るのが妥当ではないでしょうか。 城山へは、上の地図にあるとおり南麓から向かいます。耕作放棄地の続く荒れた谷戸を 進むと、左手に水路を渡る橋があり、ここが登城口なのですが、橋も雑草に覆われている ためにたいへん見づらく注意が必要です。ただし、入り口さえ見つけてしまえばあとは簡単 です。 入った先は浅い谷間になっていて、大きく2段に削平されています。『日本城郭大系』に よれば上段は奥屋敷と呼ばれるそうで、上下段とも屋敷施設が建てられていたのでしょう。 また、この部分も含めて城内は植樹林となっていて、明るくはないものの、歩き回ることは できます。 主郭へは、削平地西端の尾根をよじ登るのが得策でしょう。尾根筋には土塁が張り出し、 虎口を形成しているほか、一見するとどういう構造になっているのか分からないほど複雑な 感じに、土塁や堀が入り組んでいます。主郭虎口まで来てから俯瞰して気付いたことには、 虎口前にはもともと横堀があったところに、それを遮るような形で土塁を付け足し、馬出し状 の出郭が構築されていました。すなわち、はじめは単郭の典型的な伊賀式城館だったもの を、後で改修・拡張したのだと考えられます。 同様に、主郭北西の尾根にも横堀を改修した虎口や、低い土塁に囲まれた曲輪が延びて いて、さらに峰続きの東方尾根には堀切と土塁が設けられています。堀切を越えた先には、 尾根筋に沿って防御の用に立つとは思えない浅い溝状の堀と低い土塁が続いていますが、 何のための造作なのかは定かでありません。 このような増改築の痕跡が見られるということは、やはりこの城は天正七年に新造された のではなく、それ以前から下山氏の城館として存在していたとみるべきでしょう。私見として は、堀切や馬出しなど伊賀ではあまりみられない技巧が用いられていることから、天正五年 (1577)に北畠具親がすぐ西方に具親城を築いて蜂起したころに、比奈知の下山甲斐守城 と合わせて改修されたのではないかと考えています。 |
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西から下山甲斐守城跡を望む。 | |
登城口のようす。 | |
谷間の削平地。 | |
奥屋敷と呼ばれる削平地のようす。 | |
主郭南西尾根筋の虎口と土塁および堀。 | |
同じく主郭下の虎口状地形。 | |
主郭虎口。 | |
主郭虎口前の馬出し状の出郭。 | |
横堀を遮り、馬出し状出郭を 構成する土塁。 |
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主郭のようす。 | |
同上。 | |
主郭北東辺の堀と土塁。 | |
主郭北隅の堀と土塁。 | |
主郭西隅の虎口状地形。 | |
主郭北西尾根の曲輪と土塁。 | |
主郭当方尾根の土塁。 | |
同じく土塁と堀切。 | |
堀切の向こうに伸びる堀状地形と土塁。 |