馬坂城(まざか)
 別称  : 間坂城、天神林城、稲木城
 分類  : 平山城
 築城者: 佐竹昌義
 遺構  : 曲輪、堀、土塁、水の手
 交通  : JR水郡線谷河原駅徒歩25分


       <沿革>
           長承二年(1133)、佐竹氏初代の佐竹昌義がこの地にあった天神林正恒を駆逐し、
          馬坂城主となったと伝わる。正恒は藤原秀郷の後裔とされるが、詳しい系譜は定かで
          ない。馬坂城はもともと正恒の居所であったとも、昌義が新たに築いたともいわれる。
           昌義の子隆義は、藤原(太田)通延の太田城を接収して居城とした。馬坂城には、
          稲木郷に入植した稲木次郎義清が住したとされる。義清は隆義の次男とも孫ともいわ
          れる。
           応永十四年(1407)に佐竹義盛が男子なく没し、関東管領山内上杉憲定の子義憲
          (後の義人)が婿養子として跡を継ぐと、稲木氏含め佐竹一族の多くが不満を抱いた。
          同二十三年(1416)に上杉禅秀の乱が勃発すると、佐竹氏の有力分家である山入氏
          (山入佐竹氏)を中心として、義憲に対する大規模な反乱が発生した(山入の乱ないし
          山入一揆)。翌二十四年(1417)に禅秀が討たれると、義憲も攻勢に転じ、稲木義信
          は稲木城を攻め落とされ殺害された。
           その後、義人の嫡子義俊の子義成が天神林氏を称し、天神林城主となった。しかし、
          天神林氏もまた、宗家に従順というわけではなかった。延徳二年(1490)に義成の兄
          の宗家当主佐竹義治が没し、嫡男義舜が若くして跡を継ぐと、山入義藤・氏義父子が
          太田城を攻め取った。義成の子義益は山入氏に加担し、太田城へ移った山入父子に
          代わり、山入城主に入った。
           永正元年(1504)、勢力を盛り返した義舜は、山入父子を太田城に攻め滅ぼし、百年
          近くにわたって断続した山入の乱を終結させた。山入城も攻め落とされ、義益は戦死
          したともいわれる。馬坂城で戦闘があったかは定かでない。
           天神林氏自体は存続したようで、天文十五年(1546)に天神林五郎(義広)が佐竹
          義廉(北家)から「義」の一字を受けた際の書状写が残っている。ただし、天神林氏が
          馬坂城に居城し続けたかどうかは明らかでない。
           現地の遺構や城の規模から、馬坂城は戦国時代後期も使用されていたとみられて
          いる。その場合、廃城時期は最も遅くて慶長七年(1602)の佐竹氏の出羽移封まで
          下ることになる。


       <手記>
           佐竹郷にあり、佐竹昌義の居城として初めて名が挙がる馬坂城は、佐竹氏発祥の
          城といわれています。城の北東には同氏ゆかりの佐竹寺があり、佐竹の名字はこの
          寺で昌義が節の1つしかない竹を見つけたことに由来するとする言い伝えもあります。
           他方で、有力分家稲木氏の稲木城や同じく天神林氏の天神林城を馬坂城と同一と
          するのが半ば定説となっていますが、確証があるわけではないようです。馬坂城が
          ある場所は今日の常陸太田市天神林町で、その北東に同じく稲木町が隣接し、他に
          それらしき城跡がないことからの敷衍と思われます。
           限られた時間で周辺の城跡を巡るなかで、実は馬坂城を訪れる予定は当初ありま
          せんでした。久米城を見学した際、ちょうど地元の方が山を整備されていて、その方
          に「最近、馬坂城も綺麗に整備されてね〜。行ってみるといいよ。」と勧められたのが
          きっかけでした。
           城は、やや複雑に入り組んだ丘陵の細長い先端部を利用しています。先端側から
          「西城」「御城」「押葉平」という3つのエリアに大きく分けられ、それぞれ堀切で分断
          されています。押葉平は民家の敷地などになっていて、城跡として見学者用に整備
          されているのは残る2つのエリアです。
           御城は上下2段になっていて、上段が全体の本丸と思われます。ただ、今も部分的
          に畑となっているので、当時とは地形の改変があるかもしれません。畑の所有者の
          女性がおられましたが、訪城者に好意的でにこやかに挨拶してくださいました。
           西城は、畑地転用もあまりされなかったようで、見ごたえのある遺構のほとんどが
          こちらに集まっています。御城と西城の間には、さっそく深くて広い二重の堀切が
          お出迎えしてくれます。西城は、中心にとても目立つ円錐形の古墳があるのが特徴
          です。物見台として使われたのでしょうが、頂部に手を加えられているようなようすが
          ないのも気になりました。
           古墳の麓には、土塁を伴う成形された曲輪が並んでいます。さらにその先の、城内
          最西端の曲輪は、ぐるりと横堀が巡り大きな見どころの1つとなっています。西城から
          北に伸びる細尾根の先にも、印象的な小ピークがあるのですが、こちらは城の造作
          がみられず、現地説明板では城外扱いとなっています。ただ、頂上にはベンチが設け
          られ、眺めはそこそこに開けていて、やはり物見に使われていたのではないかなとは
          思いました。西城から南側へ降りるあたりには、水の手も残されています。井戸という
          より、沢を掘って水を堰き止めている感じです。
           全体として、地形自体はさほど要害性に優れているとはいえません。小さな尾根が
          ちらほら付属していて、その都度堀切を穿っているのも、逆に言えば弱点の多い城で
          あるといえます。ただ、規模も大きく技巧的で、やはり戦国時代後期まで使用されて
          いたのはほぼ確実でしょう。

           
 馬坂城近望。
御城の城址碑と説明板。 
 御城東側の堀跡。
御城の上下2段になっているようす。 
 御城北側の小尾根の堀切。
御城と西城の間の二重堀切。 
 西城の古墳。
古墳麓の土塁を伴う曲輪。 
 最西端の曲輪付け根の堀切。
最西端の曲輪とその横堀。 
 横堀を見下ろす。
西城の水の手。 
 西城北側に派生する小ピークの尾根。
小ピークの頂部。 


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