干沢城(ひざわ)
 別称  : 樋沢城、安国寺城
 分類  : 山城
 築城者: 諏訪氏
 遺構  : 曲輪跡、土塁、堀、石積み
 交通  : JR中央本線上諏訪駅よりバス
       「小町屋入口」バス停徒歩10分


       <沿革>
           諏訪氏大祝家の居城とされるが、築城年代や築城者は明らかでない。干沢城が史料に
          登場するのは、文明十五年(1483)のいわゆる「文明の内訌」に際してである。同年一月
          八日、諏訪氏の全権を握ろうと画策した大祝家諏訪継満は、惣領家諏訪政満を誘殺した。
          同月十五日、継満は干沢城に移り本拠としたが、惣領側の巻き返しに遭い、同月十九日
          に干沢城で合戦となった。継満は敗れ、高遠へ落ち延びた。
           翌十六年(1484)五月、再起を図った継満は杖突峠を越え、片山古城(武居城)を取り
          立てて惣領家の干沢城と対峙した。継満と、政満の子頼満との間で和議が成立し、後に
          大祝家は頼満の惣領家に吸収される形で諏訪氏は統一された。
           天文十一年(1542)に甲斐の武田晴信(後の信玄)が諏訪へ侵攻した際にも、干沢城で
          戦いがあったといわれる。また、同年九月には諏訪郡の領有をめぐり、高遠頼継と晴信が
          干沢城下で激戦を繰り広げた(安国寺合戦)。その後の干沢城については不明である。


       <手記>
           干沢城は、宮川へ細長く突き出した半独立状の峰を利用した城です。西には諏訪大社
          上社前宮、東には安国寺が鎮座し、古くから栄えた土地であったことがうかがえます。
           城へは、北西麓の阿弥陀堂裏手から、あるいは南東麓の安国寺墓地脇から登ることが
          できます。杖突街道の安国寺トンネル手前に駐車スペースと城址標柱ならびに説明板が
          整備されていますが、ここからは登る道がありません。
           遺構の残存状況は良好です。南端の主郭から北に向かって、連郭式に広めの曲輪が
          連なっています。二の郭には投石用の礫石が積まれていて、貴重な遺構となっています。
          二の郭の前後には大きな堀切があり、東麓に竪堀となって延びています。また主郭から
          谷を隔てた南西の尾根筋には、長林砦と呼ばれる支砦があります。ここには、ピークの
          曲輪と付属の2、3の腰曲輪、そして2条の堀切が認められます。南方の杖突峠方面から
          の敵に警戒して後から築かれたものであることは明白です。
           干沢城は諏訪氏大祝家の居城として知られていますが、今に残る遺構は、明らかに
          武田氏以降のものです。その規模は、惣領家の居城上原城に匹敵するか、それを凌ぐ
          大きさです。おそらく、有賀城などとともに伊那・高遠方面からの敵襲に備え、武居城と
          ともに杖突峠越えの街道を押さえる拠点として重要視されたのだと推測されます。


           
 干沢城遠望。
主郭の城址碑と説明板。 
 主郭から二の郭とその先の三の郭を望む。
二の郭の投石用の石積み(戦闘石)。 
 二の郭と三の郭の間の堀切。
三の郭のようす。 
 三の郭から四の郭を望む。 
長林砦の堀切。 
 長林砦の曲輪。


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