八橋城(やばせ)
 別称  : 大江城
 分類  : 平山城
 築城者: 行松氏
 遺構  : 曲輪跡、石垣
 交通  : JR山陰本線八橋駅下車


       <沿革>
           伯耆国人・行松氏によって築かれたとされるが、詳しい経緯は不明である。行松氏の出自は
          定かでなく、鎌倉時代には会見郡中間荘に土着し、南北朝時代に伯耆守護・山名師義の子・
          幸松右馬助を養嗣子としたとされる。
           大永年間(1521〜28)ごろ、行松氏は尼子氏に逐われ、八橋城には尼子家臣・吉田左京亮
          が入れられた。『伯耆民談記』では、大永四年(1524)五月に尼子経久が攻め入り、たちどころ
          に伯耆を平定したとされているが、今日では尼子氏の伯耆侵攻は段階的に進められたと考え
          られている。八橋城の正確な落城時期は明らかでない。
           永禄八年(1565)、毛利元就が月山富田城を包囲しているさなか、毛利家臣・香川光景らが
          八橋城を攻略した。城主となっていた左京亮の子・源四郎は僅かな手勢を率いて城門を開き、
          包囲を突破して月山富田城へと落ちた。八橋城は行松氏の居城であった尾高城と共に、毛利
          家臣・杉原盛重に与えられている。
           天正九年(1581)に盛重が病没すると、次男・景盛が八橋城主となった。翌十年(1582)十月、
          景盛は羽柴氏に通じたとして、兄・元盛を2人の子ともども尾高城に誘殺した(『伯耆民談記』)。
          しかし景盛自身も同十二年(1584)に、羽柴氏に内通したとして吉川元長に攻められ、佐陀城で
          自刃した。
           同年以降に京芸和睦が成立すると、東伯耆3郡は羽衣石城主南条元続の所領とされたが、
          八橋城のみは毛利氏の手に残された。その後、元続が八橋城も奪取することに成功し、、南条
          元信を城番としたとされる。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで南条家が改易となると、中村一忠が伯耆一国に封じられ
          ると、一忠の叔父・一栄に八橋城3万石が与えられた。同九年(1604)に一栄が没すると、子の
          栄忠が継いだとみられるが、定かでない。同十四年(1609)に一忠が早世して中村家が改易と
          なると、市橋長勝が2万石余で八橋城に入り、八橋藩を興した。『寛政重修諸家譜』などでは、
          八橋ではなく「矢橋」と記されている。
           元和二年(1616)、長勝は4万1300石に加増の上で三条藩に転封となった。翌三年(1617)、
          八橋は鳥取32万5千石に移封となった池田光政の所領となり、従弟違いにあたる家老の池田
          長明が八橋城主に任じられた。寛永九年(1632)に光政が岡山藩主池田光仲と入れ替わりと
          されると、津田将監元匡が八橋城に入った。以後、津田家を含む5家は、ある程度の独立した
          施政権をもつ「自分手政治」を許され、城内に陣屋を置いて明治維新まで続いている。


       <手記>
           JR八橋駅駅前に説明板や標柱があり、その裏手の丘が八橋城跡です。丘の上には東西2つ
          の曲輪があり、東の曲輪には八橋城山稲荷神社が、西の曲輪には「酒井片桐飛行殉難碑」が
          建っています。この碑は昭和七年(1932)に八橋沖で墜落した朝日新聞社航空機のパイロット
          の顕彰碑だそうで、城跡とは関係がありません。この2曲輪では西曲輪の方が高いのですが、
          主郭なのかは不明です。
           城山入口の標柱から脇道を奥へ進むと、石垣が残っています。早ければ南条氏の、遅くとも
          市橋氏の時代に築かれたものでしょう。近世まで存続した城なので、上記は山陰本線の線路を
          越えて南側にも延びていたと思われますが、遺構らしきものは見られないようで、立ち寄らずに
          次へと向かいました。

 駅前から城山を見上げる。
説明板。 
 登城口。
 標柱の右側を進むと石垣があります。
東曲輪と土塁。 
 八橋城山稲荷神社。櫓台跡か。
西曲輪の酒井片桐飛行殉難碑。 
碑の下に城主のお猫様が座していらっしゃいます笑 
 北側下の石垣。
同上。 
 八橋駅にちょうど入って来た山陰本線。


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