尾高城(おだか)
 別称  : 小鷹城、泉山城
 分類  : 平山城
 築城者: 行松氏か
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR米子駅からバスに乗り、
      「尾高上」下車徒歩1分


       <沿革>
           伯耆国人・行松氏の居城として築かれたと推測されるが、詳しい経緯は定かでない。行松氏の
          出自は明らかでなく、鎌倉時代には会見郡中間荘に土着していたとされ、尾高城跡からは鎌倉
          後期の建物跡が検出されている。
           江戸時代の地誌『伯耆民談記』によれば、大永四年(1524)五月に尼子経久が伯耆へ侵攻し、
          またたく間に国内を平定したとされる(大永の五月崩れ)。しかし、今日では尼子氏の伯耆進出は
          段階的に行われたとみられており、天文(1532〜55)の初めごろまでに、行松氏は尾高城を逐わ
          れたと考えられている。尾高城を奪った尼子氏は、家臣・吉田光倫を城主とした。
           永禄五年(1562)に毛利元就が尼子氏を攻めると、その間に行松正盛が毛利家臣として尾高城
          を奪還した。しかし、宿願を果たした正盛が翌六年(1563)に世を去ると、毛利家臣・杉原盛重が
          正盛の妻であった毛利興元の娘(元就の姪)を室に迎え、後継の尾高城主となった。正盛の2人
          の遺児は盛重に引き取られたものの、行松氏が盛重に乗っ取られる形となったことに不満を覚え、
          後に羽衣石城主南条氏のもとへ奔ったといわれる。
           永禄十二年(1569)、海路から出雲に上陸した山中幸盛率いる尼子再興軍は、尼子氏旧臣らを
          糾合して勢力を拡大し、尾高城はじめ伯耆の多くの城を攻略した。元亀二年(1571)までには奪回
          されていたようで、同年に捕えられた幸盛は尾高城へ護送されたが、まもなく脱出・逃亡している。
           天正九年(1581)に盛重が病没すると、長男・元盛が尾高城を、その弟の景盛が八橋城を継承
          した。翌十年(1582)十月、景盛は羽柴秀吉に通じたとして、元盛を2人の子ともども尾高城に誘殺
          した。しかし、景盛も同十二年(1584)に羽柴氏との内通を疑われ、吉川元長に攻められ佐陀城で
          自害を余儀なくされた。『伯耆民談記』によれば、元盛は正盛の実子・九郎二郎とされ、また景盛
          についても、その弟の十郎二郎とする説がある。尾高城には、吉田光倫の甥にあたる吉田元重が
          城番として入れられた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いにより、伯耆一国が中村一忠に与えられると、米子城が整備
          されるまでの仮の居城となった。『伯耆民談記』には、尾高城や倉吉城の櫓を米子城へ移築した
          とあるが、今日では俗説とみられている。翌六年(1601)に一忠が米子城へと移ると、尾高城は
          廃城となった。


       <手記>
           佐陀川の河岸段丘の一角に築かれた城です。国指定史跡として調査と整備が続けられており、
          駐車場も完備されています。それぞれの曲輪が空堀で囲まれ、独立性が高いのが大きな特徴。
          縄張り図だけ見れば南九州型城郭のような感じにさえ見えます。
           舌状に細く伸びた台地先端に本丸および二の丸がありますが、この2か所に限って私が訪れた
          ときは、未整備なのか私有地なのか立入禁止でした。ですが、その後に発掘調査が進められて
          いるようなので、いずれは公開されるのかもしれません。
           その他の部分は史跡公園として整備されており、とくに中の丸や南大首郭などは土塁や建物跡
          が分かりやすく展示されています。南大首郭から堀を挟んだ東側には、鎌倉時代の建物跡も地表
          復元されていました。長らく西伯耆の中心的な役割を果たしてきた城跡なので、今後の整備進行
          が期待されますね。

 南大首郭の堀と土塁。
南大首郭の虎口と木橋。 
 南大首郭のようす。
南大首郭の櫓跡。 
 南大首郭と中の丸の間の空堀。
同上。 
 本丸跡を見上げる。
 立入禁止でした。
本丸と中の丸の間の空堀。 
 中の丸の切岸。
中の丸のようす。 
 中の丸からの眺望。
南大首郭東側の鎌倉時代の建物跡。 
 方形館跡。
方形館跡の堀跡。 
 越ノ前郭跡。


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