藤心陣屋(ふじごころ) | |
別称 : 藤心代官所 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 本多正重 | |
遺構 : 土塁か | |
交通 : 東武野田線逆井駅徒歩15分 | |
<沿革> 元和二年(1616)に下総国相馬郡船戸1万石を与えられた本多正重によって、飛び地 支配のための代官所として築かれたとされるが、正確な築城年は明らかでない。正重は、 徳川家康の参謀として知られる本多正信の弟で、兄と異なり武勇と剛直さで名を馳せた 人物である。 翌元和三年(1617)に正重は世を去り、跡を正重の娘の子で養子の正貫が継いだ。 しかし、所領は8千石に減らされ、船戸藩は一時消滅した。その後も藤心陣屋は存続し、 正貫の孫の正永が寺社奉行を務めたことで加増を受け、元禄元年(1688)に再び船戸藩 が成立した。正永は、同十五年(1702)に再び加増を受けて上州沼田藩へ転封となり、 今度は船戸自体が飛び地となった。 享保十五年(1730)には本多正矩が駿州田中藩4万石へ加増転封となり、明治維新に 至るまで同地を治めた。このように、本多氏の所領は幾度かの変遷を経ているが、藤心 については一貫して同氏の所領でありつづけた。 明治元年(1868)、本多家は上総・安房国内4万石へ移封とされ、長尾藩が成立した。 これにより、本多家の藤心支配にも終止符が打たれ、藤心陣屋は廃止となった。 <手記> 藤心陣屋は、大津川とその支流(名称不明)の合流点付近にあったとされています。 比高差はほとんどなく、陣屋ですから要害地形というわけではありませんが、川の両岸 は今でもかなりの低湿地です。 幹線道路から一本生活道路に入った畑の一角に、立派な城址碑と説明板が設置され ています。だいたい上の地図の緑点のあたりなのですが、当初私は陣屋の位置を誤って 手持ちの地図に書き入れていたため、ご一緒した『大和之古城』のダイさんのご助言が なければ、石碑までたどり着けなかったかもしれません^^; 市内の観音寺と法林寺にそれぞれ陣屋の表門と中門が移築されているそうです。現地 にはおそらく遺構はないと思うのですが、西辺の川沿いに土塁状の土盛りがみられたり、 台地付け根にある八幡神社が一段高くなっていてこれまた櫓台か何かに見えてしまった りしてしまいます。ただ、いかんせん陣屋ですから、そこまでの造作がなされていたかは かなり怪しいところといわざるを得ません。 |
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藤心陣屋跡石碑と説明板。 |