長尾陣屋(ながお)
 別称  : 長尾藩陣屋、長尾城
 分類  : 陣屋
 築城者: 本多正訥
 遺構  : なし
 交通  : JR内房線館山駅からバスに乗り、
      「東横渚」下車徒歩10分


       <沿革>
           大政奉還後の慶応四年(1868)、駿河田中藩主本多正訥は新政府から安房国内4万石へ
          移封を命じられた。兵学者でもある藩士・恩田仰岳によって、守りに堅い要害地形の白浜村
          滝口に陣屋の建設先が定められた。工事の間、正訥は村内の法界寺に仮寓した。
           翌明治二年(1869)に藩士らの移住が本格化したが、同年夏の台風により、未完成のまま
          長尾陣屋は倒壊した。もともと、交通上の不便や政治・経済的に不毛な地であったことから
          不満が噴出し、正訥は翌三年(1870)に、もともとあった北条村の海防陣屋を改築して移った
          (鶴ヶ谷陣屋)。仰岳も失脚し、長尾陣屋が復活することはなかった。ただし、藩名は長尾藩
          のまま続き、翌四年(1871)の廃藩置県によって長尾県となった。


       <手記>
           長尾陣屋は、北に長尾川の谷、西から南にかけてを屏風状の稜線に囲まれた、擂鉢状の
          特徴的な地形を利用しています。東には安房里見氏の最初期の居城とされる白浜城跡
          ありますが、直接の関係はありません。
           畑地が広がっているところに、藩主邸や藩士の屋敷などが並んでいたそうですが、現在は
          遺構はおろか説明や案内などもありません。南側の切り通し道が、大手口とされています。
          擂鉢の中央西側に舌状の小丘がせり出していて、曲輪が設けられていたのではと直感して
          しまいますが、はっきりした遺構はないようです。そもそも建造の経緯を考えると、そんな丘を
          造成している余裕はなかったでしょう。中世の城砦があったのではと考える人もいるようです
          が、水も得られないこんな日影の地に、開発領主が城館を営むとは思えません。
           白浜は、今でこそ首都圏に近いリゾート地として栄えていますが、当時は生産性が高いとは
          いえず、岩場ばかりで港も開けず、交通上も重要性のまったくない僻地だったはずです。地形
          だけみればたしかに要害かもしれませんが、そもそもこんなところを敢えて攻めに来る勢力は
          いないでしょう。
           私から見れば、恩田仰岳という人は机上の兵学に溺れ、紙上の局地戦以外になにも思慮に
          入っていない残念過ぎる意識高い系に見えます。実用性が皆無という点では、龍岡城と双璧
          を成す幕末期の二大バカ査定と考えています。

           
 陣屋跡現況。
 画面中央は舌状の小丘。
同上。 
 大手口とされる切り通し道。
舌状小丘の北側のようす。 
 長尾川沿いのようす。
陣屋跡から白浜城跡を望む。 
 南から大手口を望む。
野島埼灯台から陣屋跡南辺の稜線を望む。 


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