勝沼城(かつぬま)
 別称  : 師岡城
 分類  : 平山城
 築城者: 三田氏か
 遺構  : 曲輪跡、土塁、空堀、土橋
 交通  : JR青梅線東青梅駅徒歩10分


       <沿革>
           三田氏の居城とされるが、築城年代は不明である。三田氏は平将門の末裔を自称して
          いるが、詳しい出自は明らかでない。三田氏は杣保と呼ばれた多摩川上流域を中心に、
          最盛期には入間郡まで勢力を伸ばしていたとされる。
           永正元年(1504)、長享の乱に伴う立河原の戦いに際し、三田氏宗は長尾能景麾下に
          あって椚田城を落とし、後任の城主となった。同六年(1509)には連歌師宗長が勝沼城に
          氏宗を訪ねたことが、『東路乃津登』にみえる。宗長は勝沼城滞在中に氏宗・政定父子と
          幾度か連歌の会をもったとされる。このことは、三田氏が中央との繋がりをもち、また都の
          教養を身に付けていたことを意味している。その背景として、三田氏が多摩川上流の山林
          権益を有していたことが指摘されている。
           上杉氏が弱体化し南から後北条氏の勢力が伸びてくると、政定の子綱秀は北条氏に
          従った。しかし、永禄三年(1560)に越後の長尾景虎が関東管領上杉憲政を擁して関東
          へ進軍すると、綱秀は景虎陣営に入った。長尾・上杉両氏の小田原攻めが失敗に終わり、
          政虎(景虎から改名)が越後国へ帰国すると、武蔵・相模の多くの領主は再び北条氏に
          なびいたが、綱秀は北条氏に抵抗し続けた。綱秀は北条氏との戦いに際して、勝沼城を
          捨ててより上流の辛垣城へ移った。だが、辛垣城も同六年(1563)に落城し、三田氏は
          滅亡した。
           三田氏滅亡後、勝沼城には北条氏照家臣の足軽衆の1人師岡山城守将景が入った。
          師岡氏は、三田氏一族とも相模国師岡郷(横浜市港北区師岡)の出身ともいわれるが、
          詳細は不明である。将景は、北条氏滅亡後に徳川氏に仕えたとされるため、勝沼城は
          天正十八年(1590)の小田原の役まで存続したものと推測される。

       <手記>
           勝沼城は、青梅の市街地を望む加治丘陵の台地先端にあります。城の西側を南北に
          成木街道が、南側を東西に豊岡街道が走り、両者は城の南で交差しています。また、
          城下の青梅市街地は多摩川が山間の渓谷部が平野部にでる喉口部でもあり、交通の
          要衝にあるといえます。
           城跡へは、麓の妙光院か光明寺の裏手から登ることができます。妙光院からの方が
          分かりやすいと思います。光明寺の裏手が本丸で、その両端に1つずつ曲輪を従えた
          構造をしています。本丸の東が二の丸、西が三の丸といわれています。
           遺構の残存状況は比較的良好で、各曲輪をめぐる土塁と空堀がほぼ全体的に残って
          います。西の三の丸のみ北の丘陵と峰続きとなっており、三の丸裏手には城の最後部
          と思われる堀切があります。二の丸には、東と南に2ヶ所の虎口と馬出状遺構があった
          とされていますが、墓地開発により失われてしまったようです。本丸の南にも出丸と虎口
          らしき遺構があり、こちらが通用口で二の丸が大手口にあたると推測されます。
           勝沼城は、現在の縄張りと遺構からみて、明らかに北条氏によって完成されたものと
          みることができます。また舌状に伸びた丘陵を利用していながら、その先端が本丸では
          ないという特徴も有しています。同じような特徴をもった後北条氏の城に、小机城があり
          ます。小机城はもともと上杉氏が台地先端を主郭としていたものを、北条氏がその手前
          に新たに主郭を設けたものとみられています。勝沼城もこれに類するものと考えれば、
          三田氏時代には台地先端の二の丸を主郭とした小規模な城であったものを、北条氏が
          改築して新たに本丸・三の丸と城地を西に広げたと考えることができるのではないかと
          思います。おそらく三田氏時代の居館は、現在の妙光院の地にあったのでしょう。そして
          街道と南側の霞川ならびに北側の吹上の沢を押さえるために、背後の丘に物見の城を
          設けたというのが三田氏の勝沼城の実態だったのではないかと推測しています。
           となれば、北条氏との戦いを前に三田綱秀が勝沼城を捨てて、辛垣城に移ったのも
          自然な流れといえます。勝沼城はそもそも当時は戦闘用の城ではなかったのですから。
           また、北条氏時代の勝沼城についても考察が必要と思われます。北条氏の勝沼城、
          すなわち現在我々が目にしている勝沼城は、規模や縄張りからみてとても一介の在地
          領主の館城とは思えません。北条本家が利用する目的で築かせたと考えるのが妥当
          でしょう。とすれば、その目的は何であったのか。今井城と並んで、この付近に軍勢が
          集結あるいは宿営する際の駐屯地として使用されていたのではないかと、私は考えて
          います。最初に書いた通り、勝沼城は南北と東西方面の街道が交差する地です。西に
          向かえば奥多摩を経て甲州へ、北へ向かえば狭山を抜けて上野国へ向かうことができ
          ます。そこで、南からやってきた北条軍は、勝沼城で息を整え、ここからまた西や北へ
          向かっていったのではないでしょうか。史料上の確証はないただの推論ですが、理論上
          は妥当な推測と思われます。

           
 勝沼城本丸の説明板。
 背後には本丸土塁が見えます。
本丸と二の丸の間の横矢折れの堀と土塁。 
 本丸南の出丸土塁と空堀。
本丸と三の丸の間の空堀。 
 三の丸裏手、城の最後部の堀切。
二の丸南側の空堀。 
 二の丸東側の空堀。


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