立花山城(たちばなやま) | |
別称 : 立花城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 大友貞載 | |
遺構 : 曲輪跡、石垣、井戸 | |
交通 : JR福工大前駅よりバス。 「立花小学校前」バス停下車徒歩20分 |
|
<沿革> 建武元年(1334)、大友貞載によって築かれたとされる。貞載は豊後国守護大友貞宗の 次男で、元弘三年(1333)に貞宗が急逝すると、家督は貞宗五男の氏泰が継いでいた。 貞載は、建武二年(1335)の箱根・竹ノ下の戦いで新田義貞軍から足利尊氏軍に寝返り、 勝敗の帰趨を決した人物として知られる。翌三年(1336)に、貞載は京で結城親光に襲わ れて重傷を負い、その傷がもとでまもなく死去した。跡を継いだ弟の宗匡から、立花氏を 称するようになったとされる(貞載が称したとも)。 14世紀半ばに、南朝方の菊池武光が九州を席巻すると、宗匡は立花山城を逐われた。 応安四/建徳二年(1371)に今川了俊(貞世)が九州探題に任じられて渡海すると、宗匡 はこれにしたがって立花山城を奪回した。 永享三年(1431)、大内盛見が筑前の領有を図って出兵し、立花山城は大内軍によって 攻め落とされた。同年、盛見が少弐・大友連合軍に敗れて戦死すると、立花氏は城を回復 した。盛見の跡を継いだ持世の代に、大内氏は筑前守護職を獲得した。立花氏は大内氏 によって再び立花山城を逐われたともいわれるが、詳細は不明である。応仁元年(1467) に応仁の乱が勃発し、大内政弘が西軍の主力として上洛すると、東軍に属した大友親繁 が筑前を支配下に置いた。しかし、乱終結後の文明十年(1478)、政弘は九州経略に乗り 出し、少弐氏や大友氏を駆逐して筑前を掌握した。 天文二十年(1551)、大内義隆が大寧寺の変により自害し、大友義鎮(宗麟)の弟晴英 (義長)が大内氏の当主として推戴されると、義鎮は筑前を自身の影響下に置いた。この ころの立花山城主は立花鑑光であったとされるが、鑑光は義鎮によって誅殺され、立花 鑑載が城主を継いだ。鑑載は鑑光の子とされるが、定かではない。両者の「鑑」の字は、 義鎮の父義鑑から偏諱を受けたものと考えられ、立花山城が大内氏の支配下にあった ころ、鑑光と鑑載は大友氏に身を寄せていたものと推察される(仮に立花氏が大内氏に 属して立花山城主を堅持していたとすれば、大友氏進出後に拝領する偏諱は「鎮」の字 でなければならない)。 弘治三年(1557)に大内氏が毛利元就によって滅ぼされると、筑前は毛利氏と大友氏 の係争の地となった。永禄八年(1565)には、鑑載が元就の調略に乗り、宗麟に反旗を 翻した。宗麟はただちに吉弘鑑理を立花山城へ差し向け、鑑載は敗れて落ち延びた。 時期は不明だが、鑑載は後に赦されて立花山城主に復帰している。 永禄十一年(1568)、鑑載は毛利氏に通じて再び謀叛を起こした。このとき、筑前では 鑑載のほか高橋鑑種や秋月種実も大友氏から離反していた。宗麟は、重臣戸次鑑連 (道雪)を大将とした3万の討伐軍を編成し、立花山城を囲んだ。攻防戦は3か月強にも 及んだが、城方に内応者が出て討伐軍の突入を許し、鑑載は自刃して果てたとされる。 翌永禄十二年(1569)四月、元就は次男吉川元春、三男小早川隆景を九州へ派遣し、 立花山城を攻め落とさせた。城を失った宗麟は再び奪回の兵を挙げるが、立花山城下の 多々良ヶ浜で睨み合ったまま、両軍は膠着状態となった。肥前の龍造寺隆信との挟撃を 恐れた宗麟は、手元に匿っていた大内氏一族の大内輝弘を周防に送り込み、毛利氏の 後方を攪乱させた(大内輝弘の乱)。これによって、戦線を維持できなくなった毛利軍は 撤退し、大友勢は立花山城の奪還に成功した。 筑前経営の要である立花山城には、鑑連がそのまま城主として入った。鑑連は一般に 「立花道雪」の名で知られているが、本人が立花氏を名乗ったことは一度もない(宗麟が 謀叛人の姓である立花を嫌ったためとも)。道雪には男子がなかったため、天正三年(15 75)に一人娘のァ千代に家督を譲り、戦国時代には稀な女城主が誕生した。同九年(15 81)には、高橋紹運の長男弥七郎(吉弘鑑理の孫)をァ千代の婿養子に迎え、立花統虎 と名乗らせた(後の立花宗茂)。ときは耳川の戦いの敗戦により、大友家が斜陽に向かう ころであり、道雪は老躯を駆って勢力を挽回するべく各地を転戦し、統虎は立花山城の 留守を守った。 天正十三年(1585)に道雪が筑後で陣没すると、名実ともに統虎が立花山城主となる が、妻のァ千代とは仲が悪かったとされ、まもなく別居したと伝わる。翌十四年(1586)、 耳川で大友氏を破った島津氏が本格的に北上を開始すると、統虎の実父紹運の守る 岩屋城が包囲された。島津方の大軍(2万から10万まで諸説あり)に対し、城兵はわずか 763名であったが、半月弱の激闘の末に全滅した。このとき、統虎は紹運に城を棄てて 立花山城へ移るようすすめたとも、20数名の援軍を送ったともいわれる。 岩屋城に続き、統虎の弟高橋統増の守備する宝満山城が計略によって落とされると、 島津軍はいよいよ立花山城を囲んだ。父紹運が寡兵で岩屋城に留まったのは、中央の 豊臣秀吉の援軍が到着するまでの時間稼ぎをすることが、大友家の命脈を保つ唯一の 道であると考えていたからであり、統虎も立花山城での徹底抗戦を決意していた。統虎 は積極的にゲリラ戦に出て島津軍を手こずらせたが、秀吉軍が到着する前に立花山城 を手中に収めておきたい島津方は、一斉攻撃の準備を整えた。これを察した統虎は、 重臣内田鎮家をして偽りの降伏を持ちかけ、時間を稼いだ。やがて、豊臣軍上陸の報に 触れると、人質となっていた鎮家は偽降を白状し、すぐに首を刎ねよと言い放った。攻め 手の総大将島津忠長は鎮家の忠節に打たれ、馬を与えて城へ返した。天正十四年(15 86)八月二十四日に島津軍は囲みを解いて撤退し、統虎はこれを追撃して宝満山城・ 岩屋城を奪回した。秀吉が九州平定を達成すると、統虎は秀吉から忠義・剛勇「鎮西一」 と称され、宗麟の取りなしもあって柳川城13万2千石の独立した大名に取り立てられた。 代わって、小早川隆景が筑前など37万石余を与えられて立花山城に入った。隆景は、 海沿いに名島城を築いて移り、立花山城はその支城として、重臣浦(乃美)宗勝を城代 に入れた。奇しくも、宗勝は永禄十二年に毛利軍が立花山城から撤退した際、最後まで 城に残って撤兵を見送った将であった。宗勝は天正二十年(1592)に病死したが、後継 の立花山城代については詳らかでない。宗勝の跡を継いだ子の景継は、文禄四年(15 95)に隆景の養子秀秋が名島城に入ると、安芸三原に隠居した隆景に付き従った。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの戦功により、秀秋が岡山城へ移り、代わって黒田 長政・孝高父子が52万3千石で入封した。翌年、黒田父子は福岡城の建設を開始し、 立花山城の石材が工事に使われた。これにより、立花山城は廃城となった。 <手記> 立花山は福岡市街の北東に屹立する独立山塊で、眼下に博多津を見下ろす要衝の 山です。最盛期には山頂の主城域のほか、峰続きの周辺の支峰にも出城が築かれて いたようです。現在では、城跡というよりも絶好のハイキングコースとして、福岡市民に 愛されているようです。朝イチから多くの登山客がいましたが、残念ながら城跡が目的 なのは私だけだったようです(笑)。山頂付近は福岡市と新宮町、久山町の3自治体の 境目となっていて、城域もこれら3市町に跨っています。ここでは、大手口と推測される 立花口集落のある新宮町に含めることにしました。 柳川市に残る『立花城古図』には、道雪の墓のある梅岳寺の背後に「大屋敷」と記さ れていて、ここに平時の館があったものと推測されています。立花口のほかにも、ハイ キングコースとしてはいくつか登山口があるようですが、今日の城跡の重要な遺構の 1つである古井戸は、立花口からの登城路の中途にあります。 主郭まで一気に登ると、福岡市街方面の大パノラマが広がります。これこそが、立花 山城の要衝たる所以であるといえるでしょう。遺構は、主郭の北西稜線に集中している ように見受けられます。結構な広さのある腰曲輪が連続し、部分的には石垣も残って います。最も良好なのは、支峰松尾山との鞍部にあるもので、おそらく土橋の土留めの 石塁と思われます。この鞍部の主峰側にも、腰曲輪の長大な石垣があります。松尾山 の方へと城域は続いているようですが、時間の都合でここで引き返しました。 主郭に戻り、松尾山と反対方向へ下っていくと、まもまく特別天然記念物のクスノキ 原生林に入ります。ここにはクスノキの巨木が点在していて、最も大きいもので樹齢が 300年以上とされています。したがって、これらのクスノキは立花山城の廃城後に生育 したものということになります。かつてはこのあたりも城域だったのかもしれませんが、 今では貴重な自然の宝庫となっているため、勝手に踏み荒らすわけにはいきません。 |
|
北方から立花山を望む。 正面最高峰が主郭跡。右手が松尾山。 |
|
主郭のようす。 | |
主郭から福岡市街方面を望む。 | |
主郭の石垣跡。 | |
主郭下腰曲輪の石垣。 | |
鞍部脇の腰曲輪の石垣。 | |
鞍部の土橋の土止め石垣。 | |
古井戸。 | |
大手とみられる立花口にある梅岳寺。 | |
おまけ:立花山の大クス |