布施山城(ふせやま) | |
別称 : 布施城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 布施氏か | |
遺構 : 曲輪跡、土塁、石垣跡、堀跡 | |
交通 : 近江鉄道大学前駅徒歩15分 | |
<沿革> 六角家臣布施氏の居城とされる。布施氏の出自は詳らかでないが、戦国期には三河守家と 淡路守家の2家に分かれ、前者は布施山城を、後者は大森城を居城としていたとされる。布施 の地を領していた三河守家が本家で、布施氏の勢力拡大とともに淡路守家が分かれたものと 推測されている。 永禄六年(1563)、後藤賢豊・壱岐守父子が観音寺城内で主君六角義治に殺害されると、 家臣の間で六角氏に対する不満が噴出し、六角義賢・義治父子は観音寺城を追われた。布施 淡路守公雄も浅井氏と通じ、布施山城に籠城した。布施山城主である布施三河守も同調した ものと推測される。布施山城は三雲賢持らに攻められたともいわれるが、詳細は不明である。 六角父子は蒲生定秀・賢秀父子の調停により観音寺城へ復帰することができたが、代償として 後に六角氏の権限を大きく制限する六角氏式目が制定された。 永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を興すと、三河守は布施山城に 籠城したとされる。観音寺城や長光寺城が落城すると、まもなく布施山城も攻め落とされたもの とみられる。三河守は、『信長公記』に六角家の「真鳥羽根付き節無しの矢軸」という名宝を探し 出して信長に献上したとする記述があることから、落城後は織田家に仕えたものと考えられる。 布施山城については、落城によってそのまま廃城となったものとみられている。 <手記> 布施山城は、¬字状の小さな独立山系の布施山山頂に築かれた城です。城のある峰は見事 な円錐形をしていて、よく目立ちます。城跡へは、布施溜池西岸付近から登ることができます。 登山口を入ってまもなく、立派な石祠のある大きな塚山に出くわします。城へは塚山南側を登る のですが、その道は、塚山と布施山の山裾に挟まれた堀底道のようになっています。ここに城戸 などを設け、塚山に番所や櫓などを構えれば、城の第一の防衛ラインとなるように思われます。 また、塚山の下を回るように堀底道が延びており、北側の布施池から流れ出る小沢へと続いて います。この沢を渡って直進すると、布施氏の平時の居館があったとされる布施集落に行きつく ため、こちらが大手道だったのではないかと推測されます。 塚山を越えてからは、道が分かりづらくなります。赤や黄色のテープを追ってよじ登るのですが、 これを見失うと完全にロストしてしまうので要注意です。主城域直下付近まで来て、ようやく獣道 が復活します。 主城域は、大きく主郭と副郭の2つの曲輪から成っています。いずれも、周りを囲む土塁がよく 残っています。主郭虎口には石垣跡の石材が散乱しています。かつては、石舞台古墳のような 石囲いの埋門だったそうです。虎口下に転がっている最も大きな平たい石は、その埋門の天板 に使われていたもののようにも見えます。主郭の副郭側以外の斜面には竪堀が多数穿たれて いるそうですが、藪がひどくて確認することはできませんでした。 全体として、規模は大きくはないものの、よく整えられた構造をもつ城であるといえます。淡路 守家の布施公雄の子公保の妻は蒲生賢秀の娘といわれ、観音寺騒動の発端となった後藤氏 の居館は布施山城の西2q弱のところにあります。布施氏も、六角家中においてはこの両家に 勝るとも劣らない勢力をもっていたのではないかと推測されます。 |
|
布施山遠望。 | |
主郭のようす。 | |
主郭の土塁。 | |
同上。 | |
主郭虎口の石垣跡。 | |
虎口埋門天板の石材か。 | |
副郭の土塁。 | |
山麓の塚山脇の登山道。城戸跡か。 | |
塚山を見上げる。 | |
塚山脇から小沢へ下りる堀底道。大手道か。 |