長光寺城(ちょうこうじ)
 別称  : 瓶割山城、瓶割城
 分類  : 山城
 築城者: 六角政堯か
 遺構  : 曲輪、石垣、土塁、堀、土橋、井戸跡など
 交通  : 近江鉄道八日市線武佐駅徒歩20分


       <沿革>
           応仁二年(1468)、六角佐々木四郎政堯によって築かれたとされる。政堯は、応仁の乱に際して東軍に
          つき、西軍に属した六角氏当主の六角高頼と対立した。長光寺城や箕作城に拠って、観音寺城の高頼と
          抗争を繰り返したが、文明三年(1471)に高頼によって攻め滅ぼされた。
           高頼の子定頼は、たびたび京を逃れて近江に落ち延びた将軍足利義晴を庇護したが、「長光寺」に仮の
          御所を築いてしばらく居していたことが『宗長日記』の記録からうかがえ、長光寺城の居館付近に御所が
          造営されたものと推測されている。
           永禄十一年(1568)、織田信長が足利義昭を奉じて上洛の軍を興すと、六角義賢・義治父子は観音寺城
          周辺の諸城に兵を配して持久戦の構えをとった。しかし、信長軍の猛攻の前に六角父子は城を捨てて甲賀
          へと逃れ、長光寺城も敢えなく陥落した。
           六角父子は、その後も甲賀を拠点にゲリラ戦を展開し、元亀元年(1570)には野洲川下流へと進出した。
          これに対して、信長は湖南の諸城に武将を送り、長光寺城には柴田勝家が入った。六角軍は長光寺城を
          囲み、勝手知ったる城の水源を絶った。たちまち城内は水不足に陥ったが、勝家は残りわずかとなった水を
          城兵に飲ませると、水瓶を割って兵に決死の覚悟を促し、打って出て勝利したといわれる。この伝説から、
          勝家は「瓶割り柴田」の異名をとり、長光寺城のある山も瓶割山と呼ばれるようになったとされる。ただし、
          この話は後世の文献にしかみられず、伝説の域を出るものではない。
           その後の長光寺城については不詳だが、安土城築城の頃までには廃城になったと考えられている。


       <手記>
           長光寺城は、安土城や観音寺城の南方にある独立山系の山頂に築かれた城です。眼下に中山道(東山
          道)や八風街道が走り、交通の要衝に位置していることが分かります。
           城へは、山の北西麓にある日吉神社の脇から登ることができます。この道を登ると、一の郭と二の郭の間
          の堀切へ到達し、左手には一の郭の石垣を見ることができます。一の郭の西南方向には二の郭があるのみ
          で、長光寺城は一の郭の北方向と東方向に曲輪を連ねた縄張りをしています。しかし、東方向の曲輪は、
          遺構が明瞭ではありません。
           一の郭の北方向には、いくつかの腰曲輪や土塁を伴った大きめの曲輪などがはっきり見受けられます。三
          の郭と見られている土塁で囲まれた曲輪(『日本城郭大系』では、三の郭は東側にあったとしている)からは
          焼米が出土しており、米蔵が設けられていたものと推測されています。
           山頂からは近江八幡の市街や琵琶湖が望まれ、観音寺城ほど登るのに大変でもないので、周辺にお住ま
          いの方は、ちょっとしたハイキングにもちょうどよいかと思います。

           
 長光寺城遠望。
一の郭の石垣。  
 一の郭のようす。
 一の郭と二の郭の間の堀切と土橋。 
 米蔵跡とみられる三の郭。
 長光寺城から西方を望む。 
中央右に近江八幡城、中央左に水茎岡山城が見えます。 


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