揖斐城(いび)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 土岐頼雄
 遺構  : 曲輪、土塁、堀、虎口、土橋、井戸
 交通  : 養老鉄道揖斐駅からバスに乗り、
      「揖斐川町」下車徒歩30分


       <沿革>
           美濃守護土岐頼康の弟頼雄によって、康永二/興国四年(1343)に築かれたといわれる。
          頼雄の長男康行は、頼康の養子となって守護を継いだが、3代将軍足利義満の挑発に乗って
          明徳元/元中七年(1390)に挙兵し、敗れて頼雄の弟の本郷城主頼忠が美濃守護となった
          (土岐康行の乱)。頼雄は康暦二/天授七年(1380)に没しており、頼雄の末子・詮頼が揖斐
          城主となって揖斐氏を称した。
           天文十六年(1547)、揖斐光親の代に揖斐城は斎藤道三に攻め落とされた。光親は道三に
          追放された美濃守護土岐頼芸の弟で詮頼の曾孫・基信の養子となっていた。その後、揖斐城
          には元揖斐家臣で斎藤氏に転じた堀池氏が入ったとされる。
           永禄十〜十一年(1567〜68)に、織田信長に通じた稲葉良通(一鉄)によって揖斐城は陥落
          した。その後も堀池氏は揖斐城主として続いたようで、堀池半之丞が良通の娘婿となっている。
          しかし、天正十年(1582)の本能寺の変に伴う混乱の中で、半之丞はその義父・一鉄に揖斐城
          を攻められ、滅ぼされた。
           その後の揖斐城については詳らかでない。一鉄の嫡子である貞通は天正十六年(1588)に
          郡上八幡城4万石へ移されており、遅くともこのときまでに廃城となったと推測される。慶長五年
          (1600)の関ヶ原の戦いで曽根城主西尾光教が揖斐3万石に加増・転封となると、城山の南麓
          に揖斐陣屋が設けられた。揖斐陣屋を揖斐城と呼ぶこともあるが、山城と併存していたことは
          ないとみられる。


       <手記>
           揖斐川に臨む比高約170mの城台山が揖斐城跡です。南尾根先の金刀比羅神社から一心寺
          経由で登山路が整備されており、小回りの利く車なら境内下まで登って駐車できます。西から
          本丸・二の丸・出丸の大きく3つのピークから成っており、二の丸と出丸の間の鞍部に、大手門
          と三の丸があったそうです。少なくとも揖斐氏時代の大手は北麓の桂に開いていて、こちらに
          居館や城下町が営まれていたとみられています。
           一般には信長の美濃平定とともに揖斐氏が滅んだ際に廃城となったといわれているようです
          が、現状の遺構は規模な大きく、竪堀や堀切といった設備も多く施されていることから、上述の
          通り少なくとも本能寺の変までは存続していたのではないかと拝察されます。とくに本丸と出丸
          の技巧性が拮抗しており、出丸を含む大手門以東については揖斐氏滅亡後の拡張ではないか
          とも思われます。
           揖斐城跡は登山道がしっかりしているだけでなく、城内もやりすぎることなく適度に整備されて
          いて、史跡保存のお手本のように感じました。樹木もほどよく残してあるため城内は歩きやすく、
          さりとて暫くの間はほったらかしでも雑草畑にならないような明るさに保たれています。
           地元の知人に揖斐川の鮎料理の名店へ連れて行ってもらった後の腹ごなしに訪れましたが、
          城跡ファンではない彼らもそれなりに楽しんでいただけたようで安心しました笑

           
 南麓から揖斐城跡を見上げる。
南尾根の腰曲輪群。 
 南の丸跡から本丸切岸を見上げる。
本丸跡のようす。 
 本丸の城址碑。
本丸から岐阜市方面を望む。 
 本丸虎口。
本丸背後の堀切跡。 
 同堀跡。
二の丸跡。 
 二の丸の切岸。
二の丸背後の曲輪群。 
 大手門跡。
三の丸跡から出丸跡を望む。 
 出丸跡。
出丸北側の堀切跡。 
 出丸下にある北の丸跡。
北の丸背後の堀切跡。 
 搦手曲輪跡。
搦手の堀切跡。 
 本丸南東斜面の竪堀。
井戸跡。 


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