本郷城(ほんごう)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 土岐頼忠か
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : 養老鉄道美濃本郷駅徒歩7分


       <沿革>
           美濃守護土岐頼康の弟頼忠によって築かれたといわれる。頼康の甥・康行が養嗣子となって
          守護を継ぎ、明徳元/元中七年(1390)に幕府に対し挙兵すると、頼忠・頼益父子は討伐軍に
          加わって康行を破った(土岐康行の乱)。
           この功により頼忠は美濃守護に任じられ、少なくとも頼益の代までは本郷城に居城していたと
          される。その後、頼益の子・持益ないしその養子成頼(尾張分郡守護一色義遠の子)の代まで
          に、美濃の守護所は川手城へ移った。
           文明年間(1469〜86)に太郎ヶ城を築いた国枝大和守為助は、続いて本郷城を改修して移転
          したといわれる。為助は明応四年(1495)年に船田合戦で戦死したが、本郷城は国枝氏累代の
          居城となった。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、国枝政森は岐阜城主織田秀信に従って西軍に属し、
          東軍に城を焼き払われたとされる。国枝氏は改易され、本郷城もそのまま廃城となった。


       <手記>
           本郷城跡は池田町史跡に指定されていて、主郭北西隅の櫓台土塁が塚状に残っています。
          現況は集落の宅地や水田等ですが、明治時代の地籍図からおおよその構造が推測されている
          ようです。それによると、本郷城は大きく主副2郭から成る輪郭式の平城で外郭東辺の堀跡が、
          わずかに低まった耕地として見受けられます。
           一時は美濃守護所ともなった本郷城ですが、その割には規模がずいぶんと小さいというのが、
          訪れてみての実感です。

           
 北西から土塁を望む。
 水田一帯は副郭跡。
主郭内から見た櫓台土塁。 
 土塁下の説明板。
土塁頂部と城址碑。 
 副郭東辺の堀跡を望む。


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