曽根城(そね) | |
別称 : なし | |
分類 : 平城 | |
築城者: 稲葉一鉄良通 | |
遺構 : 曲輪跡、礎石石垣 | |
交通 : 養老鉄道養老線東赤坂駅徒歩30分 | |
<沿革> 西美濃三人衆の1人稲葉一鉄良通によって、永禄年間(1558〜69)に築かれた。一鉄は、他の三人衆と ともに斎藤龍興を見限って織田信長につき、斎藤氏滅亡の要因となった。天正十年(1582)の本能寺の変 で信長が斃れた後は、秀吉に従った。 一鉄が隠居すると子の貞通が跡を継ぎ、曽根侍従と称された。天正十六年(1588)、貞通は郡上八幡へ 移封され、曽根城には西尾光教が2万石で入城した。光教は慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦で東軍に ついたため、曽根城は大垣城攻略の最前線となり、西軍の島津義弘らに城下を焼き払われた。 戦後、光教は1万石加増のうえ揖斐に移り、ここに曽根城は廃城となった。その後、本丸跡には一鉄の 母の菩提寺である華渓寺が移された。 <手記> 城跡は、本丸跡が華渓寺の境内となり、外郭である北側が曽根城址公園として開放されています。 古絵図によると、城は方形複郭の本丸を中心に、二の丸や惣郭が巡る構造をしていたようです。現在でも 華渓寺の敷地は周囲より1mほど高く、また寺の周囲は田が囲っており、おそらく堀跡をそのまま使用した と思われ、旧状を偲ぶには充分です。 寺の北の駐車場の下からは、一鉄時代のものと思われる石垣遺構が発掘され、地表復元されています。 |
|
旧本丸の華渓寺。 周囲の田は堀の跡と思われます。 |
|
本丸北側の石垣発掘現場。 地表復元されています(塀の下ではなく、手前の列石)。 |
|
曽根城本丸跡碑。 | |
曽根城址碑。 |