伊奈城(いな) | |
別称 : 上平井館、平井館、平井堀ノ内 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 平井氏 | |
遺構 : 曲輪跡、堀 | |
交通 : JR五日市線武蔵増戸駅徒歩10分 | |
<沿革> 『新編武蔵国風土記稿』では宗剣寺を館跡とし、同寺の開基が平井某と伝わっていることから、 平井氏の館であると推測している。宗剣寺は山名を平井山とするが、現在では松岩寺と改名して いる。 平井氏については後北条氏の家臣とみられているが、その詳細は明らかでない。「平井郷伝馬 奉行」や「平井半兵衛」に宛てた書状が伝わっており、平井宿が後北条氏にとって重要な宿駅の 1つであったことがうかがえる。ただし、平井半兵衛が平井家当主あるいは伊奈城主であったかに ついては明らかでない。 『記稿』や『日本城郭大系』では松岩寺一帯のみを平井氏の館として扱っているが、松岩寺背後 の丘上にも城郭遺構が見受けられることを、田中祥彦氏や中田正光氏、菊池忠氏らが突き止めた とされる。伊奈城という呼称は、3氏によって命名されたものである。 <手記> 伊奈城は、南北方向の街道を見下ろす小丘にあります。その東裾の松岩寺は、周囲を2mほどの 石垣で囲われ、ここに館があったことは容易に想像できます。後背の丘へは、寺の南側から登り道 があります。途中に配水場があり、ここまでは車道があります。山頂には比郷神社があり、車道の 脇にはもともと神社への参道だったと思われる尾根道の跡が見られます。おそらくは、登城路でも あったのでしょう。 山頂の比郷神社周辺が主郭と思われますが、削平が完全ではなく、南東へ緩斜面の続く原地形 に近い空間となっています。田中氏はこれを防御上の工夫とみていますが、私は削平の必要性を 感じなかった、あるいは時間がなかったといったやむを得ぬ事情によるものではないかと思います。 このような緩斜面の曲輪をもつ城としては、同じく後北条氏が築いた山中城があります。 主郭の北東および北西側が峰続きとなっており、どちらも尾根筋は土橋状に削られているように 見受けられます。北西尾根下には、腰曲輪と思われる平坦地があります。さらに、主郭の西と南西 に竪堀跡が見てとれます。南西の竪堀はやや不明瞭ですが、西のそれは規模も大きくはっきりと 残っています。 このように、平井氏館背後の丘に城郭が営まれていたことは間違いないと思われます。この城に ついて、田中氏は『多摩丘陵の古城址』のなかで、西の武田氏の侵攻に備え、網代城と呼応して 防御ラインを布くためのものと推測しています。たしかに、永禄十二年(1569)に甲相同盟が破綻し て武田信玄が侵攻したとき、氏照は塩山から青梅街道を通り檜原へ抜ける侵入ルートを想定して いたといわれます。このルートを押さえるために網代城-伊奈城ラインを急遽設置した可能性はある かもしれません。ただ、網代城は北条氏が拠点として重視するには少々山奥すぎる感があり、なお かつ伊奈城も網代城も十分に籠城兵を駐屯させられるだけのスペースも設備もありません。網代城 が伝えの城もしくは狼煙用の城と考えられているのと同様、伊奈城がそれほど大きな役割を負って いたのかについては疑問です。 個人的には、眼前の平井宿が南北・東西両方面の街道が交わる要衝にあることから、この宿駅 を監視するためという至極一般的な役割をもった城だったのではないかと思っています。また、単郭 を基調とした簡素な城であるということや、さほど要害の地ではないことから、在地領主の館の付属 施設とみるのが妥当ではないでしょうか。ともすると、後北条氏以前、武州南一揆の頃に端を発する ものとも考えられますが、今のところすべては推測の域を出ません。 |
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松岩寺。 | |
比郷神社と主郭のようす。 | |
主郭北東、尾根下の腰曲輪。 | |
主郭北東、土橋状の尾根。 | |
主郭北西の土橋状の尾根。 | |
主郭西の竪堀。 | |
主郭南西の竪堀。 |