箕輪城(みのわ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 藤沢氏か
 遺構  : 堀、土塁
 交通  : JR飯田線木ノ下駅徒歩10分


       <沿革>
           築城の経緯は定かでない。戦国時代には福与城主藤沢氏の家臣木下総蔵が城主
          で、のちに藤沢頼親の養子重時が入ったとされる。頼親は武田晴信(信玄)に降伏した
          ものの、弘治元年(1555)に小笠原長時に従って信濃を離れている。重時も追随した
          とも考えられるが、詳細は定かでない。
           頼親は永禄七年〜十一年(1564〜68)ごろに信濃に戻ったとみられ、新たに田中城
          を築いて住した。箕輪城が存続していたかどうかは明かでない。
           天正十八年(1582)に天正壬午の乱が勃発すると、頼親は福与城を奪還して再起を
          図るが、高遠城に拠った保科正直に攻められ、田中城で実子頼広とともに自害した。
          重時の動向は不明だが、箕輪城はこのときまでには廃城となったものと推測される。


       <手記>
           天竜川右岸の河岸上にある崖端城で、川向うには藤沢氏の居城福与城があります。
          主郭が養泰寺裏手の墓地となっていて、とくに北辺と南辺の空堀と土塁がとても良好な
          形で残っています。北辺も、町道によって堀は削られていますが、土塁斜面はそのまま
          と思われます。
           遺構の素晴らしさもさることながら、個人的には麓の養泰寺の規模や整備具合も印象
          に残りました。広くて建物が立派なだけでなく、都会のウハウハな寺社と異なり無駄な
          華美さがなく、とても厳かできれいに整備されていました。ちょうど、住職と思われる若い
          方と造園職人たちが談笑していて、お話には入れなかったものの、地域ともとても良い
          関係を築いているように感じました。
           境内の主郭直下には弁財天を祀った湧水池があり、清水がこんこんと湧いて集落へと
          流れています。もし、この湧き水が往古からあったものだとすれば、箕輪城はこの水利を
          確保することがもともとの存在意義だったのではないかとも推測されます。立地や構造の
          面からも比較的古い形式の城館といえ、あるいは福与城が築かれる以前の、藤沢氏が
          箕輪に移り住んだ当初の居館から発展した城名のではないかとも考えられます。
           福与城の別名もまた箕輪城とされ、混同されやすいと専らいわれています。ただ、両者
          ともが藤沢氏の「箕輪の城」だったと考えれば、同じ名称が使われたとしても、ありうべき
          ことといえるのではないでしょうか。

           
 西辺の空堀。
南辺の空堀。 
 主郭の土塁。
主郭北辺の土塁斜面。 
 養泰寺。
養泰寺境内の湧水池。 


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