小原城(おばら)
 別称  : 丸山城
 分類  : 平城
 築城者: 小原太輔か
 遺構  : 堀跡
 交通  : 中央自動車道小黒川スマートIC
      から車で20分


       <沿革>
           明徳年間(1390~1394)に土豪・小原太輔が築いたと伝えられるが、確証はない。また、
          小原氏の出自も不明である。
           天正十年(1582)、時の城主・小原丹後守正継は織田信長の武田攻めに際し、主君・武田
          勝頼に最後まで付き従い、天目山で自害したとされる。小原氏自体は存続したようで、4代
          子孫の小原庄右衛門光俊は、高遠藩主保科正之が寛永十三年(1636)に山形へ移ると、
          一族を挙げて同行したとされる。小原城は遅くともこのときまでに廃城となったとみられるが、
          経緯は定かでない。
           なお、光俊は続く会津藩移封にも従い、その後裔が民謡『会津磐梯山』に登場する「朝寝
          朝酒朝湯が大好きで それで身上潰した」の口上でおなじみの小原庄助ともいわれとされる。
          ただし、小原庄助の名字は「おはら」であるのに対し、こちらは「おばら」である。また、小原
          庄助の下りは近代以降のアレンジとする説もあり、そのモデルとなった人物についても判然
          としない。


       <手記>
           高遠城の西方、三峰川左岸の河岸段丘上に築かれた崖端の城です。上に図示したあたり
          の、民家の前を抜けた先に説明板が建っているほか、麓から台地に上がる生活道路の角に
          小原丹後守の墓があります。
           南側が浅い谷となっていて、東西と南北に¬字状の堀を設けて城館と成していたようです。
          説明板の脇が東西方向の堀跡とみられ、その突端の台地際と南側の谷沿いに2か所、遺構
          とみられる凹地形が認められました。また、南の谷は堀底道になっていて、かつては台地と
          麓を結ぶメインルートであったものと推察されます。
           谷を越えた南側は、さらに南の谷川とに挟まれた細峰となっていて、ここにも城砦があった
          ようにも思われます。ただ、峰上は削平地かといわれると微妙で、切岸状の地形もありました
          が、付け根側は土地改良されているため、確証はありません。
           さて、小原城は東を向けば高遠城を正面に望み、西には三峰川の氾濫原が広がっています。
          上の地図を見てわかるとおり、西から小原城の目に触れず高遠へ入ることは不可能であり、
          かなり重要なポイントにある城館といえるでしょう。そのような要衝に、小原庄助との関連は
          ともかく、氏素性の知れない一介の土豪がほとんど記録にみられず代々居住していたという
          ことがあるものだろうかと、少々疑問に思いました。

           
 麓から小原城跡を見上げる。
説明板。 
 郭内のようす。
東西方向の堀跡とみられる台地際。 
 同上。
東西方向の堀跡のラインか。 
 南北方向の堀跡の台地際か。
南側の谷。 
麓への堀底道となっています。 
 谷から南側の峰を望む。
南側の峰の斜面。 
 峰上のようす。
切岸にも見える地形。 
 小原城跡付近から高遠城跡を望む。
 画面中央右の赤い建物が高遠閣。


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