亥鼻城(いのはな)
 別称  : 猪鼻城、千葉城
 分類  : 平山城
 築城者: 原胤房か
 遺構  : 土塁、堀、曲輪
 交通  : 千葉都市モノレール県庁前駅徒歩10分


       <沿革>
           一般には、平安末期来の前期千葉氏累代の居城跡とされる。千葉氏は、朝廷に反乱を
          起こした平忠常の子常将が、赦されて下総国千葉荘に拠り千葉介を称したのがはじまりと
          伝えられる。しかし、常将およびその子常長は上総国大椎を本拠としたとされ、千葉介を
          初めて称したのは常長の子常兼で、千葉郷に城館を築いたのは常兼の子常重とされる。
          常重の子常胤は、安房国へ落ちた源頼朝を援けて鎌倉幕府の有力御家人となり、その後
          の千葉氏発展の礎を築いた。
           南北朝時代に入り、千葉胤貞と従兄弟の貞胤が宗家の家督を巡って争った。建武二年
          (1335年)、胤貞は相馬親胤と共に貞胤が占領していた千葉荘を攻撃している。南朝方と
          して新田義貞に従軍していた貞胤は、延元元/建武三年(1336)に足利尊氏麾下の斯波
          高経に降伏したが、まもなく胤貞が急死したため、千葉宗家の家督に収まった。
           胤貞の後裔である16代胤直は、享徳の乱において幕府の支持する関東管領上杉氏に
          属し、鎌倉公方足利成氏に与する叔父の馬加康胤や重臣原胤房と対立した。康正元年
          (1455)八月、康胤と胤房は胤直を急襲し、胤直・胤宣父子は千田庄の多古城に逃れた
          が、抗しきれず自害した。発掘調査の限りでは亥鼻城から戦国時代より前の遺物は検出
          されておらず、今日ではこれ以降に原氏によって築かれたものと考えられている。
           康胤は、翌康正二年(1456)に幕府の命を受けた同族の美濃国篠脇城主東常縁の追討
          を受けて敗死した。文明三年(1471)には原氏の居城小弓城が上杉氏に攻められており、
          この時点で亥鼻城が存在していたとすれば、上杉勢に攻め落とされたとみられる。幕府方
          は下総国人の支持を受けた康胤の子(異説あり)の輔胤を攻め切れず、原氏は本佐倉城
          に居城を移した輔胤の後裔(後期千葉氏/佐倉千葉氏/下総千葉氏)の重臣として勢力
          を保持した。
           永正十三年(1516)、亥鼻城は上杉方に寝返った上総真名城主の三上氏に攻められた
          とされる(『下総原氏・高城氏の歴史』)。事実とすれば、遅くともこのときまでには築かれて
          いたことになる。翌十四年(1517)ないし十五年(1518)、足利義明が小弓城に入って小弓
          公方を名乗った。輔胤の子孫にあたる利胤は、千葉妙見宮が小弓公方の勢力下にあった
          ため、大永三年(1523)に佐倉妙見宮で元服式を行っている。すなわち、このとき亥鼻城も
          小弓公方の所有に帰していたとみられる。義明は天文七年(1538)の第一次国府台合戦
          で討ち死にし、まもなく原胤清が小弓城を回復した。
           小弓公方滅亡後の亥鼻城の動静については、史料がなく定かでない。


       <手記>
           名族千葉氏累代の居城として人口に膾炙し、立派な天守閣まで建っている亥鼻城です
          が、実際のところは経歴のよく分かっていない戦国の城砦のようです。都川に向かって、
          たしかにイノシシの鼻のように突き出た峰を利用していて、郷土博物館の模擬天守閣が
          あるのは外郭部にあたります。主郭はその前方部とみられ、土塁に囲まれているようすが
          しっかり残っているのは僥倖といえるでしょう。
           主郭に説明板があり、それによれば千葉宗家の城館は都川を挟んだ対岸平地の、千葉
          地方裁判所付近と目されているそうです。発掘調査の結果、亥鼻城の築城以前には墓地
          であったと推定されており、常胤の孫にあたる武石胤重に由来する南西麓の胤重寺との
          関連も考えられるでしょう。
           千葉氏累代の居城とする見方からは、千葉大学のキャンパス一帯も外郭や根古屋など
          城域に含まれるとされてきました。しかし、こちらも発掘調査では城館跡につながるような
          ものは見つかっていないようです。千葉氏が本佐倉に移った後に築かれたとするならば、
          たしかに広大な根古屋などは不要だったでしょう。それどころから、千葉キャンパスの台地
          が城域とするなら、同一平面上にある郷土館南の文化会館付近も取り込まれていて然る
          べきでしょうが、こちらも防御施設等が設けられている形跡は見られません。
           現地から得られる情報を総合すると、早ければ原胤房のころに千葉氏の墓域を転用して
          対上杉方の砦を構築し、その後も原氏の支城として機能したものと推測されます。
           ちなみに私が訪れたとき、模擬天守は最上階の展望室のみ改修中で立入禁止でした。
          自分は本当に模擬天守に嫌われているようで泣けてきます^^;

           
 模擬天守(郷土資料館)。
同上。 
左手前は千葉常胤像。 
 模擬天守前から主郭土塁を望む。
主郭および土塁のようす。 
 主郭の説明板。
主郭土塁から郭内を俯瞰。 
 主郭前方の堀切。
堀切先端側の曲輪跡。 
 文化会館脇の谷戸。
おまけ:県庁前駅の千葉都市モノレール。 
懸垂式って、いいね♪ 


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