岩出城(いわで)
 別称  : 安濃津城
 分類  : 平城
 築城者: 田丸直昌
 遺構  : 土塁、堀跡
 交通  : JR参宮線・近鉄山田線伊勢市駅よりバス
       「岩出」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           天正三年(1575)、北畠家を継いだ織田信長の次男信雄(当時の名乗りは信意)は、居城を大河内城
          から田丸城へ移した。田丸城主であった田丸直昌は、岩出城を新たに築いて移ったとされる。
           天正十二年(1584)の小牧・長久手の戦い後、直昌は南伊勢12万石に封じられた蒲生氏郷に従った。
          直昌の妻は氏郷の妹である。同十八年(1590)に氏郷が会津へ転封となると、直昌もこれに同道した。
           代わって、牧村利貞が2万石余で岩出城主に任じられた。利貞は、稲葉一鉄良通の庶長子重道の子
          で、外祖父の牧村政倫の跡を継いでいた。文禄二年(1593)、利貞は朝鮮の役で病死し、弟の稲葉道通
          が跡を襲った。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、道通は東軍に属し、安濃津城の戦いに参加した。同戦いには、
          志摩の九鬼嘉隆も加わっているが、岩出城で攻防戦があったかは定かでない。戦後、道通は2万石加増
          のうえ、田丸城へ移った。これにより、岩出城は廃城となったとされる。


       <手記>
           岩出城は、宮川脇の舌状台地先端に位置しています。正確には城址碑ではありませんが、上の地図
          の緑丸の地点に、「岩出城開墾碑」という石碑があります。これは、太平洋戦争直後のの昭和二十一年
          (1946)に当地の農地開発が始まったことを受けて建てられたものだそうです。その他に城址碑等はあり
          ません。
           『日本城郭大系』によれば、大正年間(1912〜26)に描かれた絵図が残っているそうです。それによる
          と、岩出城は二重の堀に囲まれた輪郭式の平城様式だったようで、舌状台地を利用しているにしては、
          少々変わった感じを受けます。
           前述の通り城跡一帯は農地造成されているため、遺構の確認は容易ではありません。三尊寺の一つ
          北の民家脇に、土塁跡と思われる土盛りが続いています。また、開墾碑の西側の段差下の田は、絵図
          と見比べると堀跡の名残のようにも見受けられます。
           さらに、台地西辺には少なくとも2ヶ所の切れ込みがあり、麓への堀底道となっています。絵図によれば
          この西辺は城外にあたるようですが、城の堀跡である可能性はかなり高いと思われます。

           
 岩出城開墾碑。
土塁跡か。手前から奥へ。 
 堀跡か。
台地西辺の堀底道と土塁跡か。 
 もう1か所の切れ込み。
西辺麓のようす。 


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