大河内城(おかわち) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 北畠満雅 | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀 | |
交通 : JR紀勢本線・近鉄山田線松阪駅よりバス 「広坂」バス停下車徒歩5分 |
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<沿革> 応永二十二年(1415)、明徳の和約における両統迭立が遵守されなかったことに不満を抱い た北畠満雅は阿坂城で挙兵し、大河内城に弟の顕雅を入れた。大河内城はこのときに築かれ たとみられているが定かでない。阿坂城を舞台に、幕府追討軍による包囲戦が繰り広げられた といわれているが、大河内城で戦闘があったかは不明である。満雅は、同年中に幕府と和睦 した。 応永三十五年(1428)、満雅は再び幕府に反旗を翻したが、岩田川の戦いで追討軍に敗れて 討ち死にした。跡を満雅の子教具が継いだが、まだ7歳の少年だったため、顕雅が政務を代行 した。嘉吉元年(1441)、顕雅は家督を教具に返還して引退した。顕雅の跡は教具の次男親郷 が継ぎ、以後大河内氏は大河内御所と尊称され、北畠氏の最有力庶家となった。宗家が絶え た場合は大河内氏がこれを継ぐとまでいわれていたが、実際には親郷の後2代にわたり逆に 宗家から養子を迎えていた。 永禄年間(1558〜70)、北畠具教は居城を霧山城から大河内城へ移した。同十二年(1569)、 織田信長の伊勢侵攻によって具教らは大河内城へ押し込まれ、八月二十八日には織田勢に 包囲された。具教は1ヵ月以上持ち堪えたものの、十月三日に降伏した。北畠氏は信長の次男 茶筅丸を具教の子具房の養子とし、具教父子は大河内城からの退去を命じられた。元亀三年 (1572)、茶筅丸は元服して具豊と名乗り、天正三年(1575)には正式に北畠氏の家督を継承 した。同年、具豊は田丸城を新たな居城に定めて移り、大河内城は廃城となった。 <手記> 大河内城は、阪内川と勢津川に挟まれた丘陵の先端一帯に築かれた城です。車で訪れる 場合、西蓮寺を横目に城山方面へさらに上ると、地元の方が休耕田を開放している駐車場が あります。こちらは搦手ということで、ここから本丸まで難なく一本道で辿りつけます。 本丸は、現在大河内神社となっています。周囲は切岸となっており、北に2段ほどの削平地 が付属しています。本丸とその西の西の丸との間は堀切となっており、地元ではまむし谷と 呼ばれているそうです。この堀切によって、西の丸は本丸より独立性が高くなっており、実際 の詰曲輪はこちらとみるべきだろうと思われます。 本丸の東側下には広大な空間が広がっており、「馬場跡」「御納戸跡」といった石碑は建て られているものの、耕地化や神社の建設に伴ってかなり地形が改変されているらしく、城跡の 雰囲気は失われてしまっています。ここから峰の北端へ向かうと、尾根先に遺構が見られる らしいのですが、途中から猛烈な藪となり、それ以上の進行は困難です。 さらに、南に延びる峰にも遺構が続いています。搦手口から登ると、本城域と南の峰の間の 細くくびれた部分が堀切となっており、そこから峰上へ登ることができます。南の峰の中心的 な曲輪には塚と祠がありますが、城の遺構かは分かりません。この曲輪の背後には大河内 城で唯一と思われる二条堀切があり、その先には前後に堀切をもつ曲輪があります。その先 には伊勢自動車道が走っており、ここが南端なのか否かは分からなくなっています。 大河内城は、本丸下の平坦地の旧状が定かではありませんが、霧山城や阿坂城といった 他の北畠氏の拠点城と比べると、相当な巨城といえます。個人的な直感としては、北畠氏の 時代には西の丸と、せいぜい本丸あたりまでが城域だったのではないかと考えています。 |
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本丸の大河内神社。 | |
本丸と西の丸の間の堀切(まむし谷)。 | |
西の丸石碑と土塁。 | |
西の丸のようす。 | |
西の丸下の腰曲輪 | |
御納戸跡石碑。 | |
馬場跡石碑。 | |
搦手門跡石碑。 | |
南の峰北端の虎口状削平地。 | |
南の峰の土塁。 | |
南の峰の削平地。 | |
南の峰北西端の堀と曲輪。 | |
南の峰の中心的な曲輪。 | |
二条堀切。 | |
南の峰南端の曲輪。 | |
南の峰南端の堀切。 |