田丸城(たまる) | |
別称 : 玉丸城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 北畠親房 | |
遺構 : 天守台、石垣、水濠、門など | |
交通 : JR参宮線田丸駅徒歩10分 | |
<沿革> 延元元/建武三年(1336)、後醍醐天皇が吉野へ逃れて南朝を開くと、北畠親房は これに従い伊勢で挙兵した。このとき、親房によって玉丸山に城が築かれたとされる。 北畠氏は村上源氏の流れを汲む公家であるが、親房は南朝の軍事的柱石として活躍 した。 興国三/康永元年(1342)、玉丸城は足利尊氏配下の高師秋・仁木義長らに攻め られ、落城した。親房の子顕能は、多気に退いて霧山城を築いて新たな拠点とした。 玉丸は、伊勢神宮や商港大湊と南朝が置かれた吉野を結ぶ伊勢本街道の要衝にある ことから、その後も南北朝間で争奪戦が繰り広げられたといわれる。 南北朝統一後は北畠氏の一族が配され、玉丸御所とも呼ばれた。北畠氏5代政郷の 四男顕晴が田丸氏を称していることから、このころまでに「玉丸」が「田丸」と表記され るようになったものと考えられる。 永禄十二年(1569)から、織田信長が北畠氏攻めに乗り出すと、顕晴の孫の直昌は 城を明け渡して降伏した。北畠氏の養子となって伊勢の領主となった信長の次男信雄 (当初の名乗りは北畠具豊)は、はじめ大河内城を居城としていたが、天正三年(1575) に田丸城へ移った。このとき田丸城には大規模な改修が施され、三層の天守が造営 された。翌四年(1576)には、北畠一族の長野具藤・北畠親成らが、信長・信雄父子の 命により田丸城内で殺害された。 天正八年(1580)、火災により天守をはじめとする多くの建物が焼失した。信雄は田丸 城を再建することはせず、松ヶ島城を築いて移った。これにより一旦廃城となったものと 思われるが、詳細は不明である。 慶長五年(1600)、関ヶ原の戦いでの戦功によって、岩出城主稲葉道通が田丸城4万 5千石余へ加増転封された。道通は、稲葉一鉄良通の庶長子重通の四男である。現在 目にする田丸城の縄張りは、道通の時代に完成されたものといわれる。 元和二年(1616)、道通の子紀通は摂津中島へ転封となった。田丸城は津藩藤堂家 領を経て、同五年(1619)に徳川御三家紀州藩領となった。田丸はもともと紀州藩領と なる予定ではなかったのだが、徳川頼宣が和歌山へ赴くことを嫌がってごねていること を耳にした藤堂高虎が、狩り好きの頼宣のために鶴が多く飛来する田丸領を進呈して、 ようやく頼宣も和歌山入りを了承したという逸話が伝えられている。真偽のほどは分か らないが、高虎の徳川家に対する献身ぶりを物語っている。 頼宣の付家老の1人久野宗成が田丸城代となり、田丸領6万石の支配を任された。 久野氏は、8代を数えて明治維新を迎えた。 <手記> 城をぐるりと囲う水濠がほぼ完全に残っているため、大きめの地図ならはっきりとそれ と分かる城です。また駅からも近く、JR参宮線がその名にそぐわないほど著しくローカル であることを除けば、アクセスしやすい城といえます。 田丸城は、外城田川の北側にある独立丘を利用した城です。外城田川は、信雄時代 に城を包むように流路を変える工事が行われたとされています。 麓に役場や学校、保育所などが建設されているものの、先に書いたように水濠や石垣 がほぼ完存しているため、知名度はやや低いもののとても見ごたえのある近世城郭と いえます。田丸城址の公園整備は、玉城町出身である朝日新聞創始者の村山龍平の 篤志によるものだそうで、朝日新聞も昔は粋なことをしていたんだな〜と感じました。 また、近年学術的調査を伴った、石垣の積み直しなどの史跡整備が行われているよう です。きちんと保存された城跡の下で勉学や部活に励める中学生たちは、なんと幸せな ことかと思ったりもしました。 |
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田丸駅から田丸城址を望む。 | |
本丸の石垣群。 | |
天守台の石垣。 | |
二の丸の積みなおされた石垣(右手前)と古い石垣(左奥)。 | |
外濠のようす。 | |
唯一の建築遺構とされる富士見門。 |