平城(たいら) | |
別称 : 磐城平城、龍(ヶ)城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鳥居忠政 | |
遺構 : 石垣 | |
交通 : JR常磐線いわき駅下車すぐ | |
<沿革> 平安時代から続く大館城主の岩城家が、関ヶ原の戦い後の慶長七年(1602)に改易 されると、代わって徳川譜代の鳥居忠政が10万石で岩城領に入封した。忠政は、家康 から直々に新城を築くよう命じられていたとされ、初めは住吉を候補としたものの、適地 とはいえなかったため、改めて飯野八幡宮の鎮座する物見岡を取り立てた。 神社を遷した後、城は翌慶長八年(1603)から普請が始まった。築城に際し、忠政は 地名の「岩城」の字を「磐城」に改めている。工事は難航したらしく、完成までに12年を 要した。この間、領内からは盲人まで総動員し、幕府からの貸し付けも受けたとされる。 また、城の北麓の丹後沢は、沢を堰き止めて水濠とするために堤防を築いたものの、 その都度決壊したことから、丹後という名の老人を人柱に立てたことにちなむとされる。 天守は上げられず、2層3階の三階櫓が代用とされた。 忠政は、元和八年(1622)に山形藩22万石に加増・転封となり、代わって上総佐貫藩 から内藤政長が磐城平藩主となった。その後は、内藤家6代・井上正経・安藤家7代を 経て、明治維新を迎えた。安藤家からは、幕末の老中安藤信正を輩出している。 慶応四年(1868)、平城周辺は戊辰戦争の主戦場の1つとなった。仙台藩、中村藩ら の援兵を受けていた平城守備隊は何度か新政府軍を押し返したものの、ついに包囲 されて信正や仙台藩兵は脱出した。城には磐城平藩家老上坂助太夫らわずかな兵が 残ったが、抗しきれず城に火を放って退却した。これにより、平城は廃城となった。 <手記> JRいわき駅背後の丘が平城跡です。北口ロータリー脇には、現在の地図に重ねた わかりやすい縄張りおよび城下町割り図があります。城内はほとんどが宅地化されて いますが、本丸北側の駐車場脇に塗師櫓および隅図櫓付近の石垣が残っています。 また、本丸西の中門に伴う石垣も、積み直された形跡がみられるものの、貴重な遺構 となっています。一方の本丸中心部は、旧仮藩庁が建ち芝生が広がっていて、城址 公園として申し分ない状態にもかかわらず、私有地ということで門は閉ざされ、立ち入り はできません。 本丸西側の大手郭は、遺構はないものの道が鉤の手に折れています。そこから北に 下りると、今は静かな水辺の公園となっている、前出の丹後沢に出ます。沢濠の北東 の丘は二の丸および三の丸ということですが、こちらも今は住宅地で、とくに見るべき ものはなさそうです。ただ、本丸と二の丸の間の切通し道は、築城に伴って掘り下げ られた堀切跡と思われます。 平城は、峰続きの西側を完全に断ち切ったうえで、北・南・西の三方の総構状に濠を 巡らしていたようで、その縄張りはさながら会津若松城の縮小版のように見えます。 必ずしも10万石に見合った規模とはいえないようにも感じますが、大館城にほとんど 堀が見られないなどもともと周辺に技巧的な城館は乏しいことから、当時の磐城地方 の人々にとっては、初めて目にする近世城郭として印象に残ったことでしょう。 |
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平城本丸跡の標柱と説明板。 | |
塗師櫓の石垣。 | |
隅図櫓付近の石垣。 | |
塗師櫓脇の本丸土塁と白蛇堀跡。 | |
大手郭のようす。 | |
大手郭付近から丹後沢を見下ろす。 | |
丹後沢のようす。 | |
本丸と二の丸の間の切通し。堀切跡か。 | |
本丸東側の水手外郭跡。 |