佐貫城(さぬき)
 別称  : 亀城
 分類  : 平山城
 築城者: 武田義広か
 遺構  : 曲輪、石垣、堀、土塁、虎口
 交通  : JR内房線佐貫町駅徒歩20分


       <沿革>
           『千葉県誌』によれば、応仁年間(1467〜69)に武田義広によって築かれたとされる。
          義広は上総武田氏(真里谷武田氏)の一族と推測されるが、系譜上どこに位置する人物
          なのか定かでく、『県誌』の典拠も不明である。上総武田氏は甲斐守護武田信満の次男
          信長にはじまる。甲斐守護代跡部氏との争いに敗れた信長は甲斐を逐われて古河公方
          足利成氏に仕え、享徳の乱での戦功により康正二年(1456)〜長禄二年(1458)ごろに
          上総守護代に任じられた。義広が実在したとすれば、信長の子ないし孫の世代にあたる
          人物と考えられる。上総武田氏は、信長の孫の代に真里谷城を拠点とする真里谷氏と、
          庁南城の庁南氏の2系統に分かれた。
           また、『鎌倉大草紙』には信長の入国に先立つ享徳の乱の契機となった関東管領上杉
          憲忠の家宰長尾氏について、「上州白井、総州佐貫、越後」の3家があったとする記述が
          ある。この総州長尾家を上総国佐貫に拠った一族とみて、佐貫城の最初の築城主とする
          説もある。ただし、総州長尾氏については実在が確認されていない。
           天文六年(1537)、真里谷氏では信隆と信応の兄弟で家督争いが勃発した。信隆方の
          佐貫城は信応とそれを支持する小弓公方足利義明に攻められ落城した。争いが信応の
          勝利に終わると、信応の叔父真里谷全方(信保・信秋)が峰上城主に、全方の子義信が
          佐貫城主に収まった。
           翌天文七年(1538)の第一次国府台合戦で義明が討ち死にすると、真里谷氏は信隆を
          支援する北条氏の攻勢に晒されるようになった。信応は里見氏と結び、佐貫城は実質的
          に北条氏v.s.里見氏の最前線の城となった。数度にわたる争奪の末、永禄六年(1563)の
          第二次国府台合戦までには里見氏の所有で落ち着いたものとみられている。ちなみに、
          信応はこの間の天文二十一年(1552)年に里見氏に反旗を翻し、信隆の跡を継いだ信政
          とともに椎津城に籠り、攻め滅ぼされている。
           第二次国府台合戦に勝利した北条氏政は、里見義弘の居城となっていた佐貫城を奪う
          べく、永禄十年(1567)に上総国三船山に着陣した。義弘は城を出て三船山を襲い、北条
          勢の撃退に成功した(三船山の戦い)。
           天正二年(1574)に義弘の父義堯が久留里城で死去すると、義弘は居城を久留里に
          移した。佐貫城には、重臣加藤伊賀守信景が入れられた。同六年(1578)に義弘も死去
          すると、義弘の弟ないし庶子の義頼と、嫡男梅王丸の間で家督争いが生じた。義頼方は
          佐貫城を囲み、城主信景は梅王丸の助命を条件に開城した。
           天正十八年(1590)の小田原の陣に際し、義頼の子義康は遅参ないし惣無事令違反を
          理由に安房のみの安堵とされ、佐貫城には関東に入国した徳川家康の家臣内藤家長が
          2万石で入城した。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、家長は伏見城に籠城して戦死した。その功により
          家長の子政長は戦後1万石を加増された。元和八年(1622)には、磐城平7万石へ加増
          転封となり、代わって桜井松平忠重が1万5千石で入封した。忠重は寛永十年(1633)に
          駿河田中藩へ加増転封となり、佐貫は一時天領となった。
           寛永十六年(1639)、能見松平勝隆が1万5千石で佐貫城主となり、再び佐貫藩が成立
          した。貞享元年(1684)、勝隆の跡を継いだ重治が不正の罪によって改易となり、佐貫藩
          は再び廃藩となった。
           元禄元年(1688)、将軍綱吉の側用人柳沢保明(後の吉保)が1万2千石の大名として
          佐貫城に入り、再々度佐貫藩が立藩された。その後3万石まで加増されたのち、同七年
          (1694)に川越へ転封となった。
           佐貫はまたも天領となったが、宝永七年(1710)に阿部正鎮が三河刈谷から1万6千石
          で入封するに及び、ようやく藩として安定をみた。阿部家は8代続き、明治維新を迎えた。


       <手記>
           佐貫城は、北上川と染川に挟まれた丘陵の中途に築かれた城で、西方には浦賀水道
          を望むことができます。江戸時代まで藩府として続いていたこともあり、内房線の佐貫町
          駅から城址大手門まで鉤の手のある城下町の風景が残っています。
           城域の南端に大手門跡があり、その櫓台には城内唯一の石垣遺構が残っています。
          ただ、この石垣は中途半端な切り込みハギで、江戸時代も中期以降のかなりの安普請
          のように見えてなりません。大手門を抜けた先には3段ほどの谷筋を均した削平地群が
          あり、これもおそらく江戸時代につくられた屋敷群跡と思われます。
           登城路は直角に折れて尾根先の堀切をくぐり、山肌に沿って進みます。その真上には
          二の丸があるようで、近世まで続いた山城としては少々不思議な縄張りに感じました。
          途中には2つほどの虎口と竪堀が見受けられ、虎口はともかく竪堀についてはおそらく
          里見氏時代以来の遺構と考えられます。大手門付近の遺構は江戸時代の拡張部分と
          思われ、中世の大手は東の午房谷にあったものと推測されます。
           二の丸は残念ながら下草に覆われていて踏査は困難ですが、その先には城中最大
          の見どころと思われる本丸と二の丸の間の巨大な堀があります。土橋を越えると桝形
          状の虎口があり、本丸に到達します。
           しかし、またも奇妙なことに本丸は最高所ではない上、その北と西の2ヶ所により高い
          尾根先の峰があります。いずれも物見台状に削平されていますが、堀などはなく防御は
          薄い感じです。櫓が建てられていたような雰囲気でもなく、2ヶ所からの眺望も相互補完
          的というほどでもなく、なぜこのような縄張りにしたのかなんとも疑問です。
           本丸の背後といえる産所谷との間には岩盤を切りぬいた豪快な堀切があり、こちらも
          大きな見どころとなっています。堀切の向こうにも遺構が続いているそうでうすが、藪が
          酷かったり田んぼになっていたり、また農業用水路が開鑿されていたりで、表面観察上
          ではちょっと様子を見てとるのは困難な感じでした。
           全体としてとにかく気になったのは、「なぜ敢えてこの位置に選地したのか」という点
          です。佐貫城は細長い丘陵上にありますがその先端というわけではなく、周囲に比べて
          とくに高所というわけでもなく、はたまた眺望に優れているわけでもありません。要害性
          という面では周辺にいくらでも似たような丘があるにもかかわらず、このポイントが城地
          に選ばれた理由がどうしても合点がいきません。
           また、縄張りについても四方八方に延びる尾根を取り込んでいないため、突入ポイント
          があまりに多すぎるという点も気になります。今回初めて里見氏の城をいくつか巡ったの
          ですが、全体的に「工事量が多いわりに縄張りが安直」という印象を受けました。
           佐貫城をめぐる論点としてもう1つ挙げられるのが、「総州佐貫」の長尾氏が存在した
          のかどうかという点です。一般的には、長尾氏を3つの流れに分けるなら越後長尾氏、
          白井・総社長尾氏、そして足利長尾氏となるでしょう。ここで、足利市の隣の館林市から
          邑楽郡明和町あたりの一帯には、かつて上州佐貫荘があったとされています。このこと
          から、「総州」を「上州」の誤りとして足利長尾氏を指すとする見方もあるようです。ですが、
          さほど遠くないとはいっても足利長尾氏の居城勧農城からは10kmほども離れているうえ、
          足利市は上州ではなく野州(下野国)に属しています。さらにいうならば、足利長尾氏は
          初代長尾景人は享徳の乱のさなかに興した分家なので、乱のきっかけとして殺された
          上杉憲忠配下の3家に加えるのには、違和感を覚えます。
           他方で、千秋上杉氏(小山田上杉氏)上杉頼成の子藤景が長尾景忠の養子となった
          ことにはじまる千秋長尾氏を、総州長尾氏に充てる説もあります。これは応永二十三年
          (1416)の上杉禅秀の乱に際して、千秋長尾氏の長尾氏春が上総守護職も務めていた
          禅秀に加担したことからの敷衍と思われます。逆にいえば、それ以外の論拠は見当たら
          ず、根拠はかなり薄弱であるといえます。なにより、千秋長尾氏は乱での敗北によって
          没落しているので、享徳の乱時点での長尾支族上位3位にランクインしているのは無理
          があるといえます。
           このように、「総州佐貫」の長尾氏については実在したかも含めていまだ謎に包まれて
          います。個人的には、越後や上州の守護代格に比肩するような長尾氏が上総国に土着
          していながら歴史の表舞台にまったく登場しないなどということはあり得ないように考えて
          います。また、関東には「佐貫」という地名はちらほら散見されます(どういう意味の地名
          なのか分からないのですが)。なので一旦「佐貫」については脇に置いてみると、「総州」
          については「総社(惣社)」を指す可能性も考えられるように思います。そうすると、長尾
          三家についても「越後、白井、総社」の3つとなり、享徳の乱時の勢力関係とも合致する
          ように感じられます。

           
 大手門跡の標柱。
大手門跡脇石垣を別角度から。 
 三の丸のようす。
二の丸南端の堀切。 
 二の丸脇下城道の虎口。
二の丸下の竪堀。 
 二の丸のようす。
本丸堀の土橋。 
 本丸堀のようす。
同上。 
 本丸虎口。
本丸のようす。 
 本丸西の物見台を望む。
本丸西物見台のようす。 
 物見台からの眺望。
本丸北の物見台へ向かう中途の削平地群。 
 本丸北物見台。
本丸背後の堀切。 


BACK