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西条陣屋(さいじょう) |
別称 : 西条藩陣屋、西条城、西条館、桑村館 | |
分類 : 陣屋 | |
築城者: 一柳直重 | |
遺構 : 門、堀、土塁 | |
交通 : JR予讃線伊予西条駅からバスに乗り、 「市役所前」下車すぐ |
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<沿革> 寛永十三年(1636)、伊勢神戸藩主一柳直盛は伊予西条藩6万8千石へ加増・転封と なったが、封地へ向かう途上の大坂で病没した。遺領は3人の息子で分割され、長男の 直重が西条3万石を相続した。直重が西条陣屋を築いた地は、戦国時代までは加茂川 の河口部の川筋が乱流していたが、江戸時代初期に松山藩主加藤嘉明の家臣・足立 重信と光明寺住職・常眞によって現在の流路に改修されたと伝わる。 直重の子・直興は、弟の直照に5千石を分与したが、領内に苛政を布いて領民の騒擾 や家臣の諫死を招いた。寛文五年(1665)、職務怠慢や失政を理由に西条藩一柳家は 改易となった。 旧西条藩領は天領とされたが、寛文十年(1670)に紀州藩主徳川頼宣の三男・松平 頼純が3万石で入封し、藩が再興された。陣屋も復興されたが、西条松平家は江戸定府 であったため、藩主が下向することはほとんどなかったとみられる。西条松平家は10代を 数え、明治維新を迎えた。 <手記> 西条陣屋跡は西条高校などの敷地となり、単郭方形の外郭線と水濠が残っています。 出入口は北と東に設けられ、東辺の大手門が当時と変わらぬ位置に、高校の正門として 建っています。四周の水濠のうち南と東の2辺は他よりも幅が広く、南辺は3分の2ほどが 埋め立てられてているものの、喜多川の水を引き入れて「水の都」西条に相応しい満々 とした涼やかさを保っていました。 このほか陣屋跡東方の江渕城跡近くにある満福寺にも、陣屋の西御門が移築されて います。 |
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西条陣屋大手門。 | |
大手門脇土塁上の石碑と説明板。 | |
東辺の水濠。 | |
同上。 | |
北辺の水濠。 | |
北西隅のようす。 | |
西辺のようす。 | |
南辺のようす。 | |