神戸城(かんべ)
 別称  : 本多城
 分類  : 平城
 築城者: 神戸利盛
 遺構  : 石垣、堀、移築櫓・門
 交通  : 近鉄鈴鹿線鈴鹿市駅または伊勢鉄道
      鈴鹿駅徒歩15分


       <沿革>
           神戸西方の沢城に拠っていた神戸氏4代神戸具盛によって、天文年間(1532〜55)に新たな
          居城として築かれたとされる(『神戸録』)。神戸氏は関氏の一族であるが、具盛は北畠材親の
          子で神戸為盛の養子となり、 同二十年(1551)に没したとされる。
           弘治三年(1557)、具盛の孫の利盛は六角氏麾下の小倉三河守に攻められた柿城主佐脇氏
          を援けるために出陣したが、その隙をついて六角氏に通じた岸岡城主佐藤中務父子が神戸城
          を占拠した。しかし、逆に佐藤氏家臣古市与助が利盛に内応し、岸岡城を奪取して利盛を迎え
          入れた。まもなく利盛は神戸城を奪還し、中務父子は処刑された。
           利盛はその2年後に23歳で早世し、跡を僧籍に入っていた弟具盛(友盛)が還俗して継いだ。
          永録十年(1567)八月、織田信長の命を受けた滝川一益が北伊勢へ侵攻すると、具盛は家臣
          山路弾正の奮戦もあり、一度はこれを撃退した。しかし、翌十一年(1568)に再び織田軍が攻め
          寄せると今度は抗しきれず、信長の三男信孝を養子に迎えて和睦した。元亀二年(1571)には、
          具盛は信長によって近江日野城に幽閉され、信孝が名実ともに神戸城主となった。
           天正八年(1580)から、信孝によって城の拡張工事が始められ、5層の天守をもつ信長の子に
          相応しい巨城となった。同十年(1582)に本能寺の変が起こり、清須会議で信孝に美濃一国が
          与えられると、信孝は岐阜城へ移り、神戸城には高岡城主であった異父兄の小島兵部少輔が
          入れられた。
           翌天正十一年(1583)、信孝が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いに発展すると、秀吉に与した
          信孝の兄信雄の家臣林与五郎が神戸城を攻め落とした。このとき、兵部少輔は討ち死にしたと
          される。同戦いで信孝が切腹すると、信雄の命により与五郎が神戸氏を継いだともいわれる。
           翌天正十二年(1584)に、今度は信雄と秀吉が対立して小牧・長久手の戦いが勃発すると、
          与五郎は亀山城を攻撃したが、敗れて落ち延びたとされる。戦後、神戸城には信雄の重臣滝川
          雄利が入った。同十八年(1590)、豊臣家臣となっていた信雄が改易されると、雄利は秀吉直臣
          に取り立てられ、2万石で神戸城主となった。文禄四年(1595)には、神戸城の天守が桑名城
          移築されたとされる。また、この間に秀吉家臣の生駒親正や信雄家臣の水野忠重が神戸城主
          であった時期があるともいわれるが、確証はない。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、雄利は西軍に属して改易された。翌六年(1601)、
          一柳直盛が尾張国黒田城から5万石で入部し、神戸藩が成立した。しかし、直盛は寛永十三年
          (1636)に伊予西条藩へ転封となり、神戸領は幕府領となって神戸城の建造物は破却された。
           慶安三年(1651)に膳所藩主石川忠総が没すると、このときまでに神戸は膳所藩領となって
          いたらしく、その遺領のうち1万石を知行された忠総次男の総長が神戸藩を再興した。3代総茂
          のときには1万7千石となっていたが、享保十七年(1732)に下館藩へ加増・転封となった。
           代わって、本多忠統が河内国西代藩から1万石で神戸に入封した。延享二年(1745)には1万
          5千石に加増され、以後7代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           神戸城は鈴鹿市外の外れにあり、本丸の堀と天守台石垣が残っています。石垣は野面積み
          で比較的古い時代の技法のように見受けられますが、亀山城の石垣も同様なため構築時期に
          ついては留保が必要でしょう。ひとつ言えるのは、付櫓の石垣が付属しているものの、それでも
          この規模の天守台の上に5層の天守を乗せるのは難しいでしょう。
           現在目にしている水濠は当時のものよりずっと狭く、本丸以外の神戸公園の敷地がすべて、
          かつての濠を埋めて造成されているようです。また、二の丸の大部分は県立神戸高校となって
          います。このほか、二の丸の太鼓櫓が市内の蓮花寺鐘楼として、大手門が四日市市の顕正寺
          山門として移築されているそうです。
           神戸城は譜代本多家の居城として天守台石垣まで現存していて、普通なら形はどうあれ市の
          観光資源として扱われそうな感じがします。ところが、神戸城跡については周囲が新旧こもごも
          の住宅地となっていて、閑静な住宅街の憩いの小さな公園といった雰囲気です。堀や石垣など
          どこ吹く風で、公園の芝生や遊具でのびのびと遊んでいる子供たちの姿が、印象として目に強く
          残っています。

 天守台石垣。
同上。 
 天守台から付櫓の石垣を見下ろす。
本丸の堀跡。 
 同上。
同上。 
奥に天守台が見えます。 
 堀を埋めて造られた公園。


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