近藤砦(こんどう) | |
別称 : 浄泉寺城、近藤出羽守屋敷 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鎌倉景政か | |
遺構 : 土塁、空堀 | |
交通 : 京王線狭間駅徒歩15分 | |
<沿革> 浄泉寺の寺伝によれば、11世紀末の後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の居館が営まれていた とされる。景政の死後は孫の梶原景時がこの地を治めたと伝わる。 『新編武蔵国風土記稿』には、「近藤出羽守屋舗蹟」とある。出羽守は北条氏照の家臣で、名を綱秀 または助実といった。氏照が下野国へ支配を伸ばすと、綱秀は榎本城代となり周辺の統治に当たった。 天正十八年(1590)の小田原の役では、小田原城に詰めていた主君氏照の居城八王子城を、城代 横地監物、狩野一庵、中山勘解由とともに預かった。同年六月二十三日、八王子城は前田利家・上杉 景勝ら1万5千の軍勢に攻められ、激戦の末落城し、出羽守も戦死した。 <手記> 近藤砦は、現在の浄泉寺から麓の御霊神社あたりまでが城域であったと推測されています。浄泉寺 は湯殿川に向かって緩やかに下る丘陵の中腹にあります。湯殿川の谷戸をよく望める高台にあり、東 側にも小さな谷が入っています。 浄泉寺境内に土塁と空堀が残っており、これを見る限り、砦や城というよりは典型的な館であったもの と拝察されます。ただし、鎌倉景政の居館であったとする伝承には大いに疑問の余地があるでしょう。 景政は、その苗字の通り鎌倉を本貫地としており、遠く離れたこの地に居館を築くとは考えにくいと思わ れます。おそらくは、麓に景政と関係の深い御霊神社があることからの敷衍ではないかと考えられます。 『日本城郭大系』では、同じく出羽守の屋敷があったとされる出羽山について、「一体の居館と考える べきかもしれない」としていますが、一体の居館とはどういう意味なのか、いまひとつ判然としません。 私は、八王子城築城に際して、出羽守の館が浄泉寺城から出羽山へ移されたのではないかと推測して います。 |
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浄泉寺本堂。 | |
境内に残る土塁。 |