沢城(さわ) | |
別称 : 神戸西城、西条城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 神戸盛澄 | |
遺構 : なし | |
交通 : 近鉄鈴鹿線三日市駅徒歩20分 | |
<沿革> 鎌倉幕府の滅亡を機に自領の鈴鹿郡関谷へ戻った関盛政は、長男盛澄を神戸に、次男盛門を 国府城に、四男盛宗を鹿伏兎城に、五男政実を峯城に配して地歩を固め、関本家の家督は三男 の盛繁に継がせた。盛澄は貞治六/正平二十二年(1367)に沢城を築いて居城とし、神戸氏を 称した。 神戸氏4代の神戸具盛(楽三)は、天文年間(1532〜55)に新たな居城として神戸城を築城した。 具盛は伊勢国司・北畠材親の子で神戸為盛の養子となり、 同二十年(1551)に没したとされる。 その後も沢城は存続していたとみられ、織田信長の三男・信孝が入嗣して神戸氏を継ぐと、養父・ 7代具盛(友盛)の隠居所となった。 天正十一年(1583)、信孝が羽柴秀吉に敗れて切腹すると、具盛は織田信雄に従った。信雄の 家臣林与五郎が神戸城主となると、与五郎に神戸氏の家督を継がせたとされる。翌十二年(1584) に小牧・長久手の戦いが勃発すると、与五郎は羽柴勢に敗れて落ち延びた。これを受けて具盛も 神戸の地を退去したとされ、沢城も廃城となったとみられる。 <手記> 上に図示した点に立派な石碑や説明板が建っていますが、周囲は水田や市街地となっていて 遺構はありません。古絵図によると、南北に条里制の地割が並ぶ東西に長い楕円形の城だった ようです。国土地理院地図の古い航空写真を見ると、戦後もしばらくは浮島のようなゾウリムシ状 の城跡がくっきり残っているのが見えます。 要害性はいくらかあったかもしれませんが発展性に乏しく、より広い沖積地上の神戸城へ移った のもむべなるかなといった感じです。 |
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沢城址碑。 | |
石碑裏側の沿革。 | |
説明板。 |