峯城(みね) | |
別称 : なし | |
分類 : 山城 | |
築城者: 峯政実 | |
遺構 : 堀、土塁、天守台、石垣跡、虎口 | |
交通 : JR関西本線・紀勢本線亀山駅からバスに 乗り、「川崎農協」下車徒歩10分 |
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<沿革> 貞治六/正平二十二(1367)ごろ、関盛政の五男五郎政実によって築かれたとされるが、 築城年には異説もある。政実は分家して、峯越前守を称したとされる。 峯氏は6代続いたが、織田信長に服属した峯八郎四郎盛祐は、天正二年(1574)の長島 一向一揆との戦いで戦死した。盛祐の弟与八郎は幼少だったため、神戸城主神戸(織田) 信孝の重臣岡本良勝が峯城主とされた。一方で、与八郎は成長して信濃守盛治と名乗り、 峯城主を継いだとする文献もある(『明智軍記』『筒井家記』)。 天正十一年(1583)正月、賤ヶ岳の戦いの前哨戦として、羽柴秀吉に通じた良勝の峯城は 信孝方の滝川一益によって攻め落とされた。したがって、遅くともこのときまでには、良勝が 峯城主となって領主としての峯氏は滅んでいたものとみられる。 一益は峯城に甥の滝川儀太夫益重を置き、自身は長島城で秀吉を迎え撃った。秀吉は 大軍を率い、2月中には峯城や亀山城、長島城を囲んだ。峯城は1か月半ほど持ち堪えた が、ついに兵糧も矢弾も尽きて開城した。戦後、北勢は織田信雄の領有となり、その家臣 佐久間正勝(信栄)が峯城主となった。 翌天正十二年(1584)、今度は信雄と秀吉が対立して、小牧・長久手の戦いが勃発した。 峯城は秀吉の命を受けた蒲生氏郷・関一政らに攻められ、5日ほどの攻防の後に落城したと される。早ければ同年中に、遅くとも良勝が近世亀山城を築いた同十八年(1590)までに、 廃城となったものとみられている。 <手記> 峯城は、八島川と安楽川の合流点に臨んで伸び出た峰上の城です。峻険そうな城名です が、山容は至って緩やかです。登城口は南端と北東麓の2か所あるようですが、南端からの 方が分かりやすいでしょう。道路からの案内はありませんが、とにかく峰先を目指して畦道を 進むと、説明板が見えてきます。 本丸の北に大きく2つの曲輪が並んでいて、それぞれ半独立しているのが大きな特徴です。 便宜上、南から本丸・二の丸・三の丸とすると、本丸は三辺、二の丸は二辺、そして三の丸は 四方を土塁で囲まれています。こうした、土塁で囲まれて独立した区画が並ぶという構造は、 伊賀や甲賀の城館に見られる様式に似ています。関氏一族の勢力圏はそのどちらにも隣接 しており、影響があったとしても不思議ではないでしょう。 本丸の土塁の中央には、天守台とされるやや膨らんだ土塁状の土塁地形が認められます。 その外側中腹には、石垣の名残とされる石材もいくつか見られます。本丸土塁北西隅も櫓台 とされ、天守建築が存在したか否かは別としても、当時はそれなりに威容を持っていたものと 推察されます。縄張りとしてはそこまで技巧的とはいえないものの、技術的には進んでいた、 中世と近世の過渡期のような城として、注目すべき史跡といえるでしょう。 |
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峯城跡遠望。 | |
先端下の登城口の説明板。 | |
本丸南側、城山先端部の曲輪跡。 | |
本丸虎口前の削平地。 | |
本丸虎口。 | |
本丸のようす。 | |
本丸内から見た土塁。 | |
本丸土塁上の土塁。 | |
伝天守台。 | |
天守台の石垣の名残とされる石材。 | |
同上。 | |
本丸土塁北西隅の櫓台状土塁。 | |
天守台外側下の仕切りの段差。 | |
外側から見た本丸土塁。 | |
本丸北辺の空堀。 | |
二の丸南西の虎口。 | |
二の丸のようす。 | |
二の丸内の基壇土塁。 | |
二の丸北西の虎口。 | |
三の丸南西隅の土塁。 | |
三の丸北西隅の虎口。 | |
三の丸東辺の枡形虎口。 |