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小松城(こまつ) |
別称 : 芦城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 若林長門守か | |
遺構 : 石垣、門 | |
交通 : IRいしかわ鉄道小松駅徒歩20分 | |
<沿革> 天正四年(1576)に加賀一向一揆の将・若林長門守によって築かれたとも、それ以前から 一揆方の砦として存在していたともいわれる。天正七年ないし八年(1579〜80)に柴田勝家 が攻め落とし、丹羽長秀の家臣・村上頼勝が城主となった、あるいは勝家の与力・徳山則秀 が松任城主と兼任したとされる。天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いにより加賀半国が長秀 に与えられて以降は、頼勝が小松城主として6万6千石を領していた。 天正十三年(1585)に長秀が没すると、子の長重は豊臣秀吉によって若狭一国に減封と され、頼勝は代わって越前に入った堀秀政の与力大名となった。慶長三年(1598)に堀家が 越後へ転封となると、頼勝も本庄城(村上城)へ移り、松任城主となっていた長重が小松城 12万石に加増された。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、長重はじめ越前の多くの大名が西軍についた。 これを受け、東軍の前田利長は予防戦争として小松城を2万5千の兵で囲んだが、落とすこと はできなかったため、押さえの兵を残して南進した。利長は八月二日に大聖寺城を陥落させ、 城主の山口宗永・修弘父子を自刃に追い込んだが、大谷吉継の流した種々の流言によって 本拠の金沢城を攻められる不安に駆られ、撤退を決定した。 利長はできるだけ秘密裏かつ速やかに軍を返そうとしたが、動きを捕捉した長重は小松城 から出撃し、浅井畷で待ち伏せを行った。八月九日、丹羽家臣・江口正吉が前田勢に襲い かかり、殿軍の長連龍隊に多くの犠牲者が出たため一般に丹羽勢の大勝といわれるものの、 前田軍自体は金沢への帰還に成功している(浅井畷の戦い)。 関ヶ原の本戦で西軍が敗れると、丹羽家は改易とされ、その所領は加賀藩前田家に与え られた。小松城には城代として一族の前田長種が配され、曽孫の孝貞まで世襲している。 寛永十六年(1639)、2代藩主前田利常が家督を子の光高に譲ると、小松城はその隠居城 として大きく改修された。二の丸・三の丸が整備され、城内に石垣が設けられたのもこのとき とされる。万治元年(1658)に利常が没した後も、小松城は一国一城令の例外として存続し、 明治維新に至るまで2名1組の城番が置かれた。 <手記> 小松城といえば、直角に近い急峻な天守台石垣で有名ですね。この石垣は県立小松高校 グラウンドの西側にあり、今日の小松市街からはやや離れた場所にひっそりと佇んでいます。 石垣の上には天守は築かれず、2層3階の代用櫓が建っていたそうです。 残念ながら天守台石垣を除くと、遺構はほとんどありません。高校の校舎玄関前に二の丸、 芦城公園内に三の丸の石碑がありますが、城跡らしさは感じられません。周辺の川筋も大きく 変わっていて、当時は梯川が本丸の北を西流し、ほぼ90度に折れて西側を南流していたよう です。『明智軍記』には、明智光秀が朝倉義景から要害の地について尋ねられ、「加賀にては 小松あたり」と答えたとする逸話が載せられています。ただ、光秀が加賀の地理に明るかった とする蓋然性はなく、私は眉唾に思っています。 ちなみに、小松には自衛隊の基地がありますが、街中を歩いているとしきりに航空機が飛び 立つ音が聞こえます。目で追うことはだいたいできるのですが、どこから来るのか分からない ので、写真に収めるのはなかなか困難でした。 |
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小松城天守台石垣。 | |
同上。 | |
同上。 | |
石垣の上のようす。 | |
石垣上から本丸跡を俯瞰。 | |
本丸跡の石碑。 | |
小松高校玄関前の二の丸跡碑を望む。 | |
芦城公園の三の丸跡碑。 | |
芦城公園内の池に架かる三の丸橋。 | |
小松市役所駐車場脇の馬場跡碑。 | |
おまけ:小松基地から飛び立つ自衛隊機。 輸送機か。 |
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同じく戦闘機か。 |