掛川古城(かけがわこ)
 別称  : なし
 分類  : 平山城
 築城者: 朝比奈泰煕
 遺構  : 堀切、土塁
 交通  : JR東海道本線・東海道新幹線掛川駅徒歩15分


       <沿革>
           文明五年(1473)ごろ、今川義忠の命により重臣朝比奈泰煕が築いたとされる。泰煕没後の
          永正十年(1513)には、遠江守護斯波氏と義忠の子氏親の争いが激化するなかで、泰煕の子
          泰能によって南西の龍頭山に新城が築かれた。『宗長手記』によると、大永二年(1522)時点
          で大規模な工事が行われていたとあり、掛川新城の完成はこれより後とみられている。
           龍頭山の掛川城が完成すると、泰能はそちらへ移り、子角山の古城は支砦となったとみられ
          ている。泰能の跡は子の泰朝が継いだ。
           永禄十一年(1568)、甲斐の武田信玄が同盟を一方的に破棄して駿河へ侵攻すると、今川
          氏真は泰朝を頼って落ち延びた。同年末には三河の徳川家康が曳馬城を奪取し、掛川城を
          囲んだ。このとき、家康は子角山の掛川古城を攻め落として本陣としたともいわれる。
           氏真らは孤立無援の状態であったが、泰朝は5か月にわたって籠城を続けた。しかし、事態
          が好転する見込みはなく、永禄十二年(1569)五月十七日、泰朝は氏真の命の保証を条件に
          開城し、氏真と共に城を去った。
           その後の古城の扱いについては詳らかでない。


       <手記>
           掛川古城の築かれた子角山(ねずみやま)は、掛川城天守の北東わずか250mほどのところ
          に位置しています。山の西半には、古城の本丸跡とされる龍華院が建ち、境内には将軍徳川
          家光の霊牌を祀る大猷院霊屋があります。
           境内の東側には、一番の見どころである大堀切があります。それに沿って境内の縁が土塁の
          ようにめくれ上がっていますが、遺構なのかどうかは分かりません。堀切の東側は子角山公園
          となっていますが、こちら側には土塁状地形は認められません。
           古地図を見ると、北池公園のある子角山北麓は園名のとおり池や湿地帯となっていたようで、
          これを天然の濠とみていたものと思われます。一方で、早々に龍頭山に移ったのは、仮想敵が
          西方であったためと推測されます。両山自体は同じ丘陵上の地続きにあるため、もしも龍頭山
          のみで5か月も耐えたのであれば、泰朝の名将ぶりたるや鳴海城を守り切った岡部元信並み
          だといえるでしょう。

           
 西から子角山を望む。
龍華院入口。 
 本丸跡とされる龍華院境内。
境内の塚状土盛り。 
 境内東縁の土塁状地形と説明板。
境内東側の大堀切。 
 大堀切の堀底。
大堀切東側の子角山公園。 
 子角山公園から北麓の北池公園を見下ろす。
 こちら側は池や湿地帯だったようです。
龍華院門前から掛川城天守を望む。 


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