掛川城(かけがわ)
 別称  : 雲霧城、松尾城
 分類  : 平山城
 築城者: 朝比奈泰能
 遺構  : 御殿、櫓、石垣、土塁、堀
 交通  : JR東海道本線・東海道新幹線掛川駅徒歩10分


       <沿革>
           永正十年(1513)、今川家重臣朝比奈泰能によって、子角山(ねずみやま)の掛川城に代わる
          新城として、南西の龍頭山に築かれた。『宗長手記』によると、大永二年(1522)時点で大規模な
          工事が行われていたとあり、完成はこれより後とみられている。泰能は龍頭山の新城へと移り、
          子角山の古城は支砦となったとみられている。泰能の跡は子の泰朝が継いだ。
           永禄十一年(1568)、甲斐の武田信玄が同盟を破棄して駿河へ侵攻すると、今川氏真は泰朝
          を頼って落ち延びた。同年末には三河の徳川家康が曳馬城を奪い、掛川城を囲んだ。このとき、
          家康は子角山を本陣としたともいわれる。
           氏真らは孤立無援の状態であったが、泰朝は5か月にわたって籠城を続けた。しかし、事態が
          が好転する見込みはなく、永禄十二年(1569)五月十七日、泰朝は氏真の生命の保証を条件に
          開城し、氏真と共に城を去った。戦後、家康は石川家成を城将とした。
           天正二年(1574)、武田勝頼が遠江の要衝高天神城を攻め落としたが、掛川城は持ち堪えた。
          翌三年(1575)の長篠の戦いで武田氏が大敗すると、徳川方の反転攻勢拠点となった。
           天正十八年(1590)に徳川家が関東へ移されると、豊臣家臣山内一豊が5万石余で掛川城主
          となった。一豊によって、天守を含めた近世城郭への改修が行われた。
           慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いに際し、一豊は小山評定で逸早く掛川城を家康に提供する
          旨を諸将の前で言上し、家康の歓心を買った。しかし、居城を献上するというアイデアは、もとは
          浜松城主堀尾吉晴の子忠氏が一豊に語ったもので、自身の案を掠め盗られた忠氏は「日ごろの
          篤実なあなたにも似ない行為だ」と笑ったとされる。
           戦後、一豊は先の発言を評されて土佐一国を与えられた。翌慶長六年(1601)、家康の異父弟
          松平定勝が3万石で掛川藩主となったが、同十二年(1607)に伏見城代を拝命したため、次男の
          定行が跡を継いだ。
           元和三年(1617)に定勝が桑名藩に封じられると、定行は世子として掛川領を幕府に返上した。
          代わって徳川頼宣の附家老安藤直次が2万8千石で掛川城主となったが、頼宣が同五年(1619)
          に和歌山藩主となると、直次もこれに従って紀伊田辺へ移った。
           その後、久松松平定綱(定行の弟)、朝倉宣正(徳川忠長の附家老)、青山幸成、桜井松平家
          2代、本多忠義、藤井松平忠晴、北条氏重と短期間で城主が目まぐるしく交代した。さらに井伊家
          4代、桜井松平忠喬、小笠原家3代を経て、延享三年(1746)に太田資俊が館林藩から5万石で
          移封されるに及び、ようやく藩主家が安定した。以後、太田家が7代を数えて明治維新を迎えた。


       <手記>
           掛川城の天守は1994年に木造で再建され、城好き小学生だった私はその年に母親にせがんで
          連れてきてもらいました。あれから30年近くぶりに再訪すると、あの頃とはだいぶ視点が変わって
          いることを実感します。
           まず思ったのは、天守とその周辺の造りが精巧さを欠いているように見えるという点です。外観
          や内部設計は、残っている絵図面をたたき台に同じ一豊が築いた高知城の現存天守をモデルと
          しているそうです。当時は木造復元ブームの先駆けとして大いに話題になりましたが、今ではおそ
          らく、文化庁の許可が下りないのではないでしょうか。個人的には、21世紀に入ってからの本格
          復元と戦後復興期の天守閣建造ブームの中間くらいに位置づけられるように感じます。
           次に、掛川城の縄張りを概観すると、堀の規模に対して曲輪のスペースに乏しく、アンバランスな
          印象を受けます。おそらく、近世城郭を築くには龍頭山ではやや手狭過ぎたのでしょう。かといって
          3〜5万石程度の経済力では地形そのものを大きく改変するまではできず、山麓の逆川の向こうに
          大手門があるといった、あまり実戦的でない構造にならざるを得なかったのではないかと推察して
          います。
           とまあ、ディスってばかりに聞こえるかもしれませんが、掛川城が歴史上重要な拠点城であった
          ことは疑いありません。ちょうど桜の時期に訪れられたのも幸いと、桜色のソフトクリームを味わい
          つつ、しみじみと城内の散策を楽しみました。ちなみに、このとき天守は改装中か何かで、閉館中
          でした。私はどうも、模擬や復元天守との相性が悪くて困ります笑

           
 掛川城復元天守。
本丸から天守曲輪の天守を見上げる。 
 本丸の十露盤(そろばん)堀。
十露盤堀下の三日月堀越しに天守を望む。 
 現存太鼓櫓(左)、四足門と天守。
復元大手門。 
 太鼓櫓と天守。
現存二の丸御殿。 
 同上。
二の丸御殿を覆い隠す黒土塁。 
 三の丸堀の蓮池。


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