成羽陣屋(なりわ)
 別称  : なし
 分類  : 陣屋
 築城者: 山崎家治
 遺構  : 石垣
 交通  : JR伯備線備中高梁駅からバスに乗り、
      「成羽」下車すぐ


       <沿革>
           元和三年(1617)、3万5千石で若桜藩から加増・転封された山崎家治は、鶴首城のあった
          鶴首山の麓に成羽陣屋を設けて藩庁とした。戦国大名三村氏以来の平時の居館は成羽川
          の対岸にあり、陣屋の築かれた場所に前身となるものがあったとすれば、家臣の屋敷等で
          あったと推測される。
           家治は寛永十五年(1638)に富岡藩へ加増・転封となり、翌十六年(1639)に水谷勝隆が
          下館藩から5万石で成羽藩主に転じた。勝隆によって、陣屋西側の「御庫」の石垣が築かれ
          たとされる。しかし、勝隆は同十九年(1642)に隣領の備中松山城へ移封となり、成羽藩は
          いったん廃藩となった。
           明暦三年(1657)、丸亀藩へ加増・転封となっていた山崎家が3代藩主治頼の夭逝により
          無嗣断絶となった。藩内分知されていた家治の次男豊治は、翌万治元年(1658)に5千石の
          交代寄合として、再び成羽に移された。成羽陣屋は豊治によって完成され、山崎家は明治
          維新まで成羽領主として続いた。11代藩主山崎義厚は新政府に高直しを申請し、飛び地で
          ある浅口郡連島の新田開発分の上乗せを認められ、1万3千石弱の大名となった。陣屋も、
          220余年ぶりに成羽藩の藩庁となったが、2年後の明治四年(1871)に廃藩置県を迎えた。


       <手記>
           成羽陣屋跡は西半が成羽小学校、東半が成羽美術館の敷地となり、前面の石垣が良好
          に残存しています。ただ、小学校側の石垣には積み直しや改変がみられ、水谷勝隆による
          野面積み石垣というのがどれなのかは分かりませんでした。
           現状で見応えがあるのは美術館前の方で、2か所の折れや大手門跡・御作事門跡などが
          しっかり残っています。一方、両施設裏手の道路沿いにも低い石垣があるのですが、積み方
          や折れ方が不自然なため、これらは遺構ではないと思われます。

           
 御作事門跡。
東端の石垣。 
 大手門跡。
御庫門跡。 
 背後の道路沿いの石積み。
 遺構ではないと思われます。


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