三村氏居館(みむらし) | |
別称 : 三村氏館、成羽城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 三村家親か | |
遺構 : 土塁 | |
交通 : JR伯備線備中高梁駅からバスに乗り、 「成美コミュニティ前」下車すぐ |
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<沿革> 現地説明板によると、天文二年(1533)に三村家親によって築かれ、あわせて鶴首城の 改修が行われたとされる。ただし、論拠は定かでない。 三村氏は常陸国筑波郡三村郷を本貫とする小笠原氏の一族とされるが、確証はない。 鎌倉時代に信濃国筑摩郡洗馬荘地頭となり、その分流が備中国星田郷の地頭に補され たとみられている。 明徳四年(1393)に管領斯波義将が備中守護細川満之に充てた書状には、三村信濃 入道が成羽庄を侵している旨が記されているとされ、三村氏が成羽を本拠としたのはこれ 以降と推測される。家親の父宗親の代に、三村氏は備中の有力国人として大きく成長した。 したがって、成羽へ移ったのは宗親とも考えられる。 永禄四年(1561)、家親は毛利氏の支援を受けて庄高資の松山城を攻め落とし、居城を 移した。鶴首城は家親の弟親成に預けられ、親成・親宣父子は家親・元親父子を補佐した。 三村氏は天正三年(1575)に毛利氏によって攻め滅ぼされたが、親成父子は毛利方として 残ったため、引き続き成羽領主として毛利氏に仕えた。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利家が防長2国に減封されると、親成は禄を失って 城を出た。親宣は後に福山藩水野家に出仕している。代わって、改易となった宇喜多家の 家臣であった岡越前守(家俊)が、徳川家康に召し出されて成羽に6千石を与えられた。 慶長二十年(1615)、越前守の子平内が大坂の陣で豊臣方で参戦したため、戦後に父子 とも切腹を申し付けられた。2年後の元和三年(1617)、3万5千石で若桜藩から加増・転封 された山崎家治は、鶴首山の麓に成羽陣屋を設けて藩庁とした。このときに廃されたもの と推測されるが、定かでない。 山崎家は富岡藩ついで丸亀藩へ加増・転封となったが、明暦三年(1657)に3代治頼が 夭逝して無嗣断絶となった。藩内分知されていた家治の次男豊治は、翌万治元年(1658) に5千石の交代寄合として再び成羽に移された。三村氏居館跡は、豊治以降月見・花見の 宴に使用されたといわれる。交代寄合山崎家は幕末まで続いたが、三村氏居館跡の扱い については詳らかでない。 <手記> 三村氏居館跡は成羽川の向こうに鶴首山を望む平地にあったとされ、グラウンドをはじめ 市街地に呑まれて、遺構はほとんど見られません。グラウンド東側にあるナリケンテクノの 駐車場奥に、小さな塚状となった土塁の残片が残っています。手前には大型車両が駐車 していることが多いようで、陰になって見えづらいので注意してください。土塁脇に説明板が 設置されていて、それによるとここは館の北東隅付近にあたるようです。 国土地理院地図の年代別航空写真と重ねてみると、上に図示した形に堀の痕跡が確認 できます。それと比較すると、現地説明板の図はやや縦長のようです。成美コミュニティー センター前の公園にも説明板があり、その裏には古井戸らしきものもあるのですが、これが 遺構なのかどうかは不明です。また、説明板には土塁のほかに石垣や堀跡の一部がある というのですが、どこなのか分かりませんでした。 |
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北東隅付近の土塁。 | |
同上。 | |
成美コミュニティーセンター前公園の説明板。 右手の井戸組が遺構なのかは不明です。 |
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居館跡前から鶴首城跡を望む。 | |
鶴首城跡から居館跡を見下ろす。 |