川俣砦(かわまた)
 別称  : 亀開城、寄居
 分類  : 平城
 築城者: 川俣親義か
 遺構  : 土塁
 交通  : 羽生駅からコミュニティバスに乗り、
      「上川俣道畑」下車すぐ


       <沿革>
           古河公方家臣川俣氏の持ち城とされる。川俣氏は藤原秀郷流佐野氏の庶流で、
          騎西城主戸室親久の孫親邦の子親義にはじまるとされる。『日本城郭大系』では、
          築城年を寛正元年(1460)ごろとしているが、論拠は定かでない。
           天正十一年(1583)、砦は家臣の裏切りに遭って落城し、城主川俣主膳正貞次
          は羽州の最上義光を頼って落ち延びたとされる。ただし、このとき古河公方家や
          近隣の成田氏などは北条氏に臣従しており、川俣砦の近くには成田氏が預かって
          いた羽生城があることから、誰にどのような理由で攻められたのか疑問が残る。
           『大系』によれば、川俣氏の後に早川織部正が移り住んだとされるが、早川氏の
          素性についても不明である。


       <手記>
           埼玉用用水路の南側に隣接し、かつては利根川の自然堤防上に位置していた
          ものと思われます。砦の西方を南流する会の川は、当時は利根川の分流でした。
          したがって、川俣砦は利根川の分岐点に臨む古河公方足利氏の西の最前線と
          して重要であったものと考えられます。
           ただし、より古河に近い南東の羽生城は16世紀に山内上杉氏が築いたものと
          みられており、川俣氏の動向についてはずっと古河公方に仕えていたのかどうか
          個人的に疑問に感じています。川俣砦のすぐ南西には、羽生城の支砦とされる
          小須賀内出があり、少なくとも羽生城に木戸氏がいる間は、川俣氏は上杉氏に
          従属していたのではないかと推察しています。
           城跡は現在まるまる個人宅の敷地となっています。南西部分のものとみられる
          二重の土塁がよく残っていて、外側の土塁に失礼して足をかけると、内側の塁も
          はっきり見えます。また、用水路に沿って小規模な堀と土塁状の土手が伸びて
          いるのですが、こちらは変に城域を狭める形になっていて不自然であり、おそらく
          用水建設に伴うものでしょう。
           二重土塁のラインを敷衍すると、用水をまたいだ輪郭式の方形城館だったもの
          と推定されます。


           
 南西隅の土塁。
二重土塁のようす。 
 
 用水路沿いの堀と土塁状地形。
 こちらは遺構ではないと思われます。


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