騎西城(きさい) | |
別称 : 私市城、根小屋城、山根城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 成田氏 | |
遺構 : 土塁、城門、堀 | |
交通 : 秩父鉄道行田市駅徒歩15分 | |
<沿革> 藤原秀郷流下野佐野氏の庶流戸室親綱の曽孫戸室親久が、14世紀ごろに城主を 務めていたともいわれるが、確証はない。武蔵七党の1つ私市党の武士の館が発祥 ではないかともみられているが、詳しい築城の経緯は不明である。 史料上は、康正元年(1455)に古河公方足利成氏が、山内上杉氏方の庁鼻和上杉 憲信や長尾景仲の籠もる騎西城を攻め落としたとするのが初見とされる。 文亀から享禄の間(1501〜32)ごろに、種足城主小田顕家が騎西城へと移った。 顕家は常陸小田氏の一族ともいわれるが、その出自は定かでない。顕家は、忍城主 成田長泰の弟朝興(家時)を養子に迎えた。 永禄六年(1563)、武州松山城を救援すべく越山した上杉輝虎(謙信)は、石戸まで 来たところで松山城主上杉憲勝の降伏の報を受けた。これに激怒した輝虎は人質に とっていた憲勝の子をその場で斬殺したとされる。さらに、帰投の際にわざわざルート を外れて騎西城を攻め、これを落とした。『関八州古戦録』によると、騎西城を攻めた 理由は、怒りの冷めやらぬ胸のモヤモヤを晴らすためであったとされる。同書では、 輝虎は助五郎(朝興)はじめ城中の者を残らず撫で切りにせんと語っているが、朝興 は天正八年(1580)まで生存が確認されている。同二年(1574)にも、関宿城の救援 に関東入りした謙信勢によって、騎西城は菖蒲城などとともに攻め落とされた。時期 は明らかでないが、朝興の跡は長泰の次男泰親(長忠)が騎西城主となった。 天正十八年(1590)の小田原の役に際し、泰親は兄で成田家当主の氏長とともに 小田原城に詰めた。騎西城は、周辺諸城とともに豊臣軍に攻められ落城した。 役後、関東に入国した徳川家康の家臣松平康重が、2万石で騎西城主となった。 関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、康重は笠間3万石に加増・転封となり、大久保 忠隣の長男忠常がやはり2万石で騎西藩主となった。 慶長十六年(1611)、忠常は父に先立って若くして没し、跡を子の忠職が継いだ。 同十九年(1614)には忠隣が失脚したが、忠職は処罰を減じられ、所領はそのままに 騎西城での蟄居を命じられた。 寛永二年(1625)には、忠職は罪を赦され、同九年(1632)には5万石に加増され、 加納藩に転封となった。これにより、騎西城は廃城となった。 <手記> 騎西城跡には3層の模擬天守が立っていますが、その場所は城内ではなく、その 南西の外堀を兼ねた沼地にあたります。文化・学習センター「キャッスルきさい」の 東半分がかろうじて天神曲輪の南西部にあたり、玄関前に標柱があります。また、 そこから道路を挟んだ反対側に、ほぼ唯一の遺構となっている天神曲輪の土塁が あります。 当時の騎西城は、この地域では一般的な、低湿地に突き出した浮島のような城 だったようです。天神曲輪の北西に二の丸があり、その北が本丸ですが、今では 住宅地や畑地となっていて面影はありません。二の丸跡には、キャッスルきさいと 宅地エリアの間にやはり標柱があります。 模擬天守を除けば、残念ながら見どころの多いとはいえない騎西城ですが、歴史 的にはそれなりに重要な役割を果たしてきた城といえるでしょう。他方で、『関八州 古戦録』のとおりの経緯で謙信に攻め落とされたのだとすると、ストレス解消のため に攻撃されたという、城郭史上なかなか稀な存在といえるのではないでしょうか。 |
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模擬天守 | |
模擬天守を別角度から。 | |
天神曲輪の土塁。 | |
天神曲輪跡標柱。 | |
二の丸跡標柱。 | |
本丸跡のようす。 |