上ノ郷城(かみのごう) | |
別称 : 神ノ郷城、鵜殿城、西之郡之城、宇土城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鵜殿氏か | |
遺構 : 曲輪、土塁、堀、虎口 | |
交通 : 蒲郡駅からバスに乗り、 「赤日子神社」下車徒歩7分 |
|
<沿革> 一般には、戦国時代に入って在地領主の鵜殿氏によって築かれたと考えられているが、築城の 経緯は詳らかでない。鵜殿氏は紀伊国熊野の鵜殿村を本貫とし、藤原実方ないし熊野別当湛増 の後裔とされる。いずれかの時期に、熊野別当の荘園であった西ノ郡に移住し、上ノ郷城を本家 に下郷家・不相家・柏原家の諸家を分立した。上ノ郷家の初代とされる鵜殿長将は今川家に出仕 し、その子長持は今川義元の妹を娶った。 永禄三年(1560)の桶狭間の戦いで義元が討ち死にすると、上ノ郷家を除く3家は自立した松平 元康(徳川家康)に従った。同五年(1562)二月、元康は隣領の竹谷松平家を伴って上ノ郷城を 攻めたが、城は容易には落ちなかった。元康が甲賀忍者を放って城内に火をかけさせ、ようやく 落城したと伝わる。長持とその子長照は討ち死にし、長照の子氏長・氏次兄弟は捕えられ、後に 今川家に人質として差し出していた正室の瀬名姫とその子らとの交換に使われた。 戦後、城は元康の母於大の方の再婚相手である久松俊勝に与えられた。天正十八年(1590) 家康(元康)が関東へ移封となると、俊勝の子で家康の異父弟にあたる松平康元は、関宿城に 2万石を与えられた。上ノ郷城は吉田城主となった池田輝政の持ち城となったが、まもなく廃城 となったものとみられている。 <手記> 上ノ郷城は、兼京川の屈曲部に突き出た小峰を利用して築かれています。本丸に掲げられた パネルが目印ですが、私の訪ねた感想としては、意外と周囲から見えづらいように思いました。 車であれば、赤日子神社の境内西辺沿いに見学者用駐車場が用意されています。着くまでの 道はとても心細いのですが、駐車スペースはしっかりしているので、臆せず進んでください笑 城山周辺には果樹畑(?)が広がっており、近年まで城内も畑地だったものと思われます。 今は地元の保存会も発足していて、主城域は見やすく整備されています。とくに土塁や切岸の 高さがしっかり感じられるのは、臨場感があって見ごたえがあります。 他方で、竹谷松平家の竹谷城や五井松平家の五井城よりは間違いなく堅城ではあるものの、 縄張りはそこまで凝ったものとは思えません。鵜殿氏が家康相手に善戦したのは、城の堅固さ 以上に、周囲に味方がなく背水の陣だったことが大きいように感じます。 |
|
第2郭の虎口。 | |
第2郭の切岸。 | |
虎口脇の土塁上にある石碑。 | |
土塁上から第2郭を俯瞰。 | |
東郭。 | |
主郭虎口の石塁。 | |
主郭のパネル。 | |
主郭のようす。 | |
主郭からの眺望。 | |
麓にある熊ヶ池。 堀の名残とされています。 |