五井城(ごい) | |
別称 : 御油城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 松平忠景 | |
遺構 : 堀跡 | |
交通 : JR東海道本線三河三谷駅からバスに乗り、 「五井町民会館」下車徒歩7分 |
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<沿革> 十八松平の1つ五井松平家の居城である。五井松平家は岩津城主松平信光の七男忠景に はじまるとされるが、分家の時期や経緯については詳らかでない。 忠景の次男忠定は、深溝城の大庭氏を攻め滅ぼし、深溝松平家を興した。ただし、大庭氏を 討ち取ったのは忠景嫡男で五井松平家2代の元心で、功を弟に譲ったとする伝承や、忠景と 忠定は同一人物とする説もあり、やはり深溝松平家の成立過程にも異論が多い。 元心の子の信長は、天文四年(1535)に宗家の松平広忠が大叔父の桜井城主松平信定に よって岡崎城を逐われた際、広忠とともに伊勢国へ逃れ、同六年(1537)に広忠が帰還する まで従った。この間、五井城および五井領は信定方に押さえられていたものと推測されるが、 詳細は不明である。 信長の子忠次、は、やはり宗家と対立した三木城主松平信孝と耳取縄手で戦って討ち死に した。五井松平家は、十八松平のなかでは一貫して最も宗家に忠実であった分家の1つで、 天正十八年(1590)に徳川家康が関東へ移封となると、6代松平伊昌は下総国海上郡飯沼に 2千石を与えられた。五井城はこのときに廃されたものとみられる。 <手記> 村社八幡宮とその隣の長泉寺境内一帯が五井城址とされています。神社の鳥居の前には 溜池があり、これが堀跡でかつてはもっと広かったそうです。長泉寺の門前も一段下がった 窪地になっていて、これも堀の名残かと思われます。 立地的には五井山の裾にあたり、高台ではあるものの要害性は認められません。五井城 とはいっても、城というより居館に近かったものと推察されます。現地には城に関する案内や 説明などはありませんが、長泉寺の市指定文化財として松平長勝・信長の寄進状が残って いるとの説明書きがあります。五井松平家の2代は一般に松平元心といわれていますが、 「元心」などという諱はちょっと異例で、こちらの寄進状どおり「長勝」とするのが自然でしょう。 おそらく、元心は号や法名ではないかと思われます。それにしても、「松平信長」さんがいる というのは、個人的にツボにはまってしまいました笑 |
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八幡宮。 | |
長泉寺。 | |
八幡宮前の堀跡の溜池。 | |
長泉寺前の段差と窪地。 やはり堀跡か。 |