下の城(しもの)
 別称  : なし
 分類  : 山城
 築城者: 金刺氏か
 遺構  : 曲輪、堀
 交通  : JR中央本線下諏訪駅徒歩40分


       <沿革>
          諏訪大社下社大祝金刺氏の城とされるが、築城の経緯などは不明である。地元の伝承に
         よれば金刺家臣山口氏が預かっていたとされるが、同氏についても詳細は不明である。
          永正十五年(1518)、金刺昌春は諏訪頼満に攻められ、「萩倉ノ要害(『当社神幸記』)」に
         拠ったものの、自落して甲斐の武田信虎を頼って落ち延びた。この萩倉要害がどこにあった
         かは諸説あり定かでないが、この下の城ないし上の城に比定する向きもある。
          信虎の子晴信が諏訪を占領すると、武田家臣横田備中守高松が居城したとされる。高松
         は、天文十九年(1550)の砥石崩れで戦死したが、下の城がこのときまで存続していたかも
         含めて、城のその後については詳らかでない。


       <手記>
          下の城は、砥川に沿って延びる峰のさらに支峰の1つに築かれています。尾根筋に遡って
         いくと、対とされる上の城がありあす。城跡へは、地図にもあるとおり南西麓の林道から登山
         道が整備されています。登り口に案内が出ているので、迷うことはないでしょう。
          登山道は、下の城最後尾と思われる堀切脇を通るので、ここまで登ってしまった方が訪城
         は楽でしょう。かなり埋もれている堀切を越えて尾根先方面へ向かうと、しばらく自然地形が
         続き、その後目の前に主郭の切岸が現れます。この間の自然地形が曲輪なのかどうかは、
         ほとんど笹藪に埋もれてしまっていることもあり、判別不能です。また、切岸の手前には堀が
         設けられていたようすはなく、かつてはあったのかもしれませんが、パッと見はいきなり切岸
         だけが横一直線に出現するような感じを覚えます。同様の遺構は、同じ下諏訪町の高木城
         にも見受けられ、金刺氏の築城形態の特徴のようにも思われます。
          主郭は、かなり広く削平された空間ですが、やはり人ひとり分の踏み分け道の外は笹薮に
         覆われているため、全容を把握するのは困難です。先端まで行くと、その下に腰曲輪が続い
         ていそうに見えましたが、道が途切れており踏査できませんでした。
          時系列的には前後しますが、麓から登って城域の手前で尾根を西から東に回った頃、左手
         (尾根筋)に堀のような切れ込みが見えます。上から見てみると、S字カーブを描いて下から
         やや登っているように見受けられます。個人的な直感としては、これは堀底道の旧登山道で
         あろうと思います。そして、その旧道を挟むように平場が2つ設けられており、とくに主郭側の
         削平地は、付け根に虎口跡ないし竪堀跡と思しき切り込みを有しています。この削平地より
         上は、先述の通り藪で道がなくなっているため、主郭との間がどうなっているのかは分かりま
         せん。ただ、この登山道を掌握することに大きなウェイトが置かれていることは明らかであると
         思われます。
          上の城が明確な峰の頂部に位置しているのに対して、下の城は一応小さなピークにあると
         はいえ、一支尾根上という立地にあります。これは、第一義的には上の城と下の城にはその
         名の通り、主副の関係があることを示しています。他方で、下諏訪の町や旧中山道から望む
         ことのできる上の城に対して、下の城は別の支尾根の陰になってしまい、直接諏訪大社方面
         から見ることはできません。したがって、桜城が居城とされる金刺氏が、少なくとも下の城を
         詰城としていたとは考えにくいように感じます。桜城から望むことができないのは、一般的に
         萩倉ノ要害に比定される山吹城でも同じことですが、逆に、山吹城があれば、わざわざ川を
         渡って上の城を目指す必要はないような気がします。
          となると、金刺氏の詰城という以外に、どのような目的で築かれた城なのかを考察する必要
         があろうかと思います。個人的には、2つほどの用途が考えられます。1つは、下の城・上の城
         を経由して和田峠へ向かう脇往還があり、これを押さえるために築かれたのではないかとする
         ものです。これは、前述のとおり下の城が旧道を堀として包摂する縄張りをもっていた可能性
         がうかがえることから敷衍したものです。現在も、諸地図には下の城から旧中山道の樋橋へ
         抜ける山道が記入されています。また、樋橋から真北に向かって峠を1つ越えると、小笠原氏
         の居城林城直下を流れる薄川の源流に出ます。したがって、上の城・下の城の稜線に間道
         が走っていたとしても、不思議ではないように感じます。
          もう1つは、単純に在地領主山田氏の居城とするものです。下の城は、上の城に比べて高さ
         も位置も中途半端で、どちらかというと主眼は西麓の沢を向いているように感じられます。また、
         下の城の南麓には東山田の字があり、山田氏がこの周辺を所領とする金刺氏の家臣ないし
         一族であり、下の城がその居城であるという目もあるかと思います。

           
 旧中山道から上の城・下の城方面を望む。
 右手奥のピークが上の城。
 下の城は、左手の尾根の1つ向こうの尾根上にあり見えない。
最後尾(と思われる)堀切跡。 
 同上。
主郭背後の切岸。 
 主郭のようす。
主郭下の堀底道状遺構。 
 堀底道状遺構直上の曲輪。
同曲輪付け根の切れ込み。 
竪堀ないし虎口跡か。 


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