叶堂城(かのど)
 別称  : なし
 分類  : 平城
 築城者: 石川光元
 遺構  : 石材、堀跡か
 交通  : 高速バス西淡志知バス停にて乗り換え
       市コミュニティバス「湊」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           文禄四年(1595)、淡路志知城主加藤嘉明は、文禄の役での戦功により伊予国
          松前城6万石に加増転封となった。志知は太閤直轄領となり、はじめ三宅丹波守
          が、次いで播磨龍野城主石川紀伊守光元が代官として派遣された。
           慶長五年(1600)、光元は志知城に替わって三原川河口に叶堂城を築き、淡路
          水軍の拠点とした。しかし、同年中に関ヶ原の戦いが勃発。光元は西軍に属して
          改易され、叶堂城も廃城となった。


       <手記>
           三原川が大日川と合流し、海に注がんとする河口部に築かれています。おそらく
          当時は水軍拠点らしく、ほとんど海水に面していたものと推測されます。
           感応寺境内が主郭部とされ、本堂は周辺から見ると異様なほどの高台に建って
          います。明らかに盛り土された地形ですが、これが城の造作の転用なのかどうか
          は判じかねます。
           駐車場入り口には、城跡の石材を現代の穴太衆の技をもって積み直したという
          石垣があります。櫓台にもならないほど小さく、往時の石垣の「復元」とはとうてい
          思えませんが、石材が城のものというなら十分貴重な遺構といえるでしょう。
           また、寺の周囲には堀跡のように見える窪地の田や水路が見受けられます。
          とくに東側の低い田は、航空写真で見ると城の堀跡をそのまま利用しているように
          見えます。とすると、わずか数か月しか存在しなかった城としては、感応寺境内は
          わりと本丸の外形を残しているのではないかと思うのです。

           
 感応寺を望む。
感応寺本堂を見上げる。 
 積み直された石垣。
感応寺境内東辺の低地の田。 
堀跡か。 
 同じく西辺の水路。
 こちらも堀跡か。


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