加納城(かのう) | |
別称 : 沓井城 | |
分類 : 平城 | |
築城者: 斎藤利永 | |
遺構 : 石垣、濠跡、曲輪、土塁、虎口 | |
交通 : JR東海道線岐阜駅徒歩15分 | |
<沿革> 美濃守護代斎藤利永が、守護所川手城の防備のため、船田城とともに築いたとされる。その 位置は、およそ近世の加納城本丸と一致すると考えられている。この時の加納城は沓井城とも 称した。 明応四年(1495)、船田城主石丸利光と加納城主斎藤利国(妙純)との間で、美濃国の実権 争いである船田合戦が起こった。加納城も戦場となったが、この時は斎藤方が勝利し船田城が 焼失する結果となった。 土岐氏の内紛に乗じて頭角を現した長井規秀(後の斎藤道三)は、守護代斎藤利良が天文 七年(1538)に没したのを機に、斎藤氏を継いで稲葉山城へ移り、同年内に加納城は廃城と なった。 関ヶ原の戦い後の慶長六年(1601)、徳川家康は本多忠勝に命じて加納に再び築城した。 同時に岐阜城を廃してその建材を加納築城に使用したとされ、二の丸御三階櫓は岐阜城天守 の転用といわれる。城は3年をかけて完成し、初代藩主として奥平信昌が10万石で入った。 寛永九年(1632)に4代藩主忠隆が嗣子なく没すると、奥平家は無嗣改易となった。その後、 大久保家1代・戸田松平家3代・安藤家3代と城主が代わり、宝暦五年(1755)に永井直陳が 3万石余で入城すると、明治維新まで永井氏が6代続いた。 明治維新後、建物は破却あるいは売却された。昭和に入ると本丸跡に陸軍司令部が置かれ、 太平洋戦争後は昭和五十年(1975)まで自衛隊駐屯地が置かれていた。 駐屯地移転後の調査で、戦国期加納城の遺構や、江戸期の石塁などが検出された。 <手記> 城跡は現在、本丸が公園となっています。また、二の丸にあたる気象台や小学校などに遺構 が散見されます。 本丸の加納公園は南北の城門跡にゲートが設けられていて、朝晩定刻に開閉されているよう です。中山道歩きで加納宿(岐阜市街)に泊まった翌日の朝イチで訪れたところ、運良くゲートが 開く直前でした。また門衛(管理人?)の方に見所やパンフの在り処などを教えいただけました。 自衛隊駐屯地になっていたことも幸いしたのか、城跡は本丸を中心にかなり遺構が残されて います。本丸の東側には、初期徳川氏城郭の特徴であり、他では珍しい外舛形が見られます。 また本丸周囲の濠跡も、埋められてはいるものの、当時の輪郭のまま公園の一部や畑地として 残っています。 二の丸にある気象台と小学校の間にも石垣が残されていて、この周辺から近年の発掘調査に より新たな礎石や石塁、食器などが見つかったそうです。 江戸時代、加納は城下町でもあり宿場町でもありました。県庁所在地でありながら、岐阜駅の 南側には宿場町当時の道筋などが比較的良好に残っています。中山道沿いのあちこちに加納 宿の紹介パンフが置かれていて、それに従って歩くと、大手門の前で道が複雑な舛形に折れて いるさまが実感できて面白いです。 |
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本丸石垣。手前の砂地は濠跡。 | |
本丸の様子。 | |
珍しい外升形。 | |
本丸外升形から二の丸を望む。 土塁の下の畑地は濠跡と重なると思われます。 |
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気象台下の石垣。 | |
大手門跡。 中山道は写真右から後方へ折れる。 |