葛西城(かさい)
 別称  : 葛西御殿
 分類  : 平城
 築城者: 不詳
 遺構  : なし
 交通  : JR常磐線亀有駅ないし京成電鉄青砥駅よりバス
       「こはるびの里」バス停下車


       <沿革>
           築城の経緯については詳らかでない。一説には、平安時代末から鎌倉時代初期に活躍した
          葛西清重ないしその一族によって築かれたといわれるが、憶測の域を出ない。また、現地には
          「青砥藤綱城跡」の石碑が建てられている。藤綱は鎌倉時代後期の御家人で、「五十文松明」
          の逸話などで知られる人物である。ただし一次史料にはみられず、その実在を疑問視する声も
          強い。たとえ実在したとしても、藤綱の本拠は上総国青砥荘であったとされている。ちなみに、
          上総国青砥荘についてもどこにあったのか特定されていない。
           発掘調査による出土品からは、15世紀ごろの築城と推定されている。『日本城郭大系』では、
          武蔵守護代大石石見守によって築かれたとする見方が示されている。康正二年(1456)、千葉
          氏家中の内紛により千葉城を逐われた千葉実胤・自胤兄弟は、市川城から葛西城へ逃れたと
          いわれる。大石氏は山内上杉氏の家臣であったが、その後、千葉兄弟は扇谷上杉家家宰太田
          道灌を頼り、実胤は石浜城へ、自胤は赤塚城へ移った。
           天文七年(1538)二月、葛西城は北条氏綱によって攻め落とされた。同年十月には、江戸川
          を挟んで小弓公方足利義明・里見義堯連合軍v.s.北条氏の、いわゆる第一次国府台合戦が
          行われ、葛西城は北条方の前線基地となった。戦後、葛西城は北条氏重臣の遠山綱景に与え
          られた。時期は不明だが、葛西城は太田氏によって奪われ、永禄五年(1562)に奪い返されて
          いる。おそらく太田資正が北条氏から離反した同三年(1560)以降のことと推測される。『本田
          家文書』に収められている北条氏康の書状によれば、北条氏による奪回は本田正勝ら「忍びを
          もって」少人数で行われたとされている。葛西城主には、そのまま本田氏が充てられた。
           永禄五年(1562)、氏康の甥の太田康資が北条氏から離反し、同族の資正のもとへ奔った。
          同七年(1564)には、北条氏と里見・太田連合軍との間で第二次国府台合戦が勃発し、葛西城
          は再び前線基地となった。元葛西城代の綱景は、康資や富永直勝と江戸城を3分の1ずつ預か
          る城代であったが、康資の離反を察知できなかったことを不覚として、同戦いで直勝らと里見軍
          に突撃を敢行し、討ち死にした。康資の寝返りは綱景らだけでなく北条家全体に衝撃を与えた
          ようで、『関八州古戦録』によれば、戦いに際して北条方は江戸衆の妻子をことごとく人質として
          葛西城に押し込めたとされる。発掘調査でも、刀傷のある女性の頭骨や、数体の子供の遺骨が
          発掘されている。
           ちなみに近年の研究によれば、第二次国府台合戦は永禄七年とその前年の2度にわたって
          行われとみられている。両年とも1〜2月にかけて戦闘が繰り広げられていることから、混同して
          伝わってしまったものと考えられている。
           その後、天正十八年(1590)の小田原の役で北条氏が滅ぶまでの葛西城について、詳細は
          不明である。同年に徳川家康が関東に入封すると、葛西城跡に鷹狩のための葛西御殿が造営
          された。葛西御殿は、江戸幕府成立後も3代家光の時代まで存続したが、明暦三年(1657)に
          廃された。同年一月の「明暦の大火」で焼失した江戸城の再建に、御殿の建材が転用された
          ためと考えられている。

       <手記>
           葛西城は、中川沿いの沖積地に築かれた城です。すぐ北には水戸街道が走り、古くから中川
          (当時の利根川)の重要な渡河地点であったものと推測されます。当然ながら周辺は住宅街化
          されていて、遺構はありません。城内を貫通する環状七号線の建設にともない、昭和四十七年
          (1972)から5年にわたる大規模な発掘調査が行われています。調査の結果、葛西城は少なく
          とも三重の堀で囲まれた城だったことが明らかとなっています。
           環七を挟んで向かい合う葛西城址公園と御殿山公園が、かつての本丸域にほぼ相当します。
          東側の葛西城址公園は、名前ばかりで園内には説明ひとつありません。逆に御殿山公園には、
          史跡の説明板や発掘調査の説明、先述の青砥藤綱城跡碑などがあります。御殿山とは徳川氏
          の葛西御殿に因むもので、昭和初期までは比高1mくらいの高まりになっていたそうです。今では、
          これらの説明板や石碑のほかに城跡を感じさせるものはありません。
           
 御殿山公園の史跡説明板。
青砥藤綱城跡碑。 
 御殿山公園向かいの葛西城址公園。


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