鹿島城(かしま) | |
別称 : 吉岡城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 鹿島政幹 | |
遺構 : 曲輪跡、堀、土橋 | |
交通 : JR鹿島線鹿島神宮駅徒歩10分 | |
<沿革> 大掾氏一族の鹿島氏の居城である。鹿島氏は、大掾氏の分家吉田氏の流れを汲み、 吉田清幹の子成幹にはじまる。成幹の子政幹は、居所を粟生から吉岡に移した。鹿島氏 は源平合戦で頼朝方につき、政幹の子の宗幹・弘幹兄弟は文治元年(1185)の屋島の 戦いで討ち死にした。政幹は頼朝から鹿島神宮の総追捕使に任じられ、大掾氏の有力 支族というポジションに加え、鹿島神宮との結びつきによって勢力を拡大した。 大永三年(1523)、当主鹿島義幹が他の大掾氏支族や江戸氏と謀った家臣らによって 鹿島城を逐われるという事件が起こった。『鹿島治乱記』によれば、義幹は暗君・暴君で あったうえに、鹿島城の大改修に着手し、家臣との間に諍いを生じたのだとされる。ただ、 実際には鹿島氏の家督・実権争いに周辺豪族が介入したものと考えられている。鹿島氏 当主には、惣領家大掾高幹の弟通幹が迎えられ、通幹は義幹の兄で前々当主の景幹の 娘を娶った。義幹は下総国の東氏を頼り、翌四年(1524)に鹿島城奪回の兵を起こして、 高天ケ原で合戦に及んだ。この戦いには壮年期の塚原卜伝も加わっていたという。義幹 はこの合戦で討ち死にした。しかし、経緯は不明だが、義幹の孫の治時(治幹)がのちに 鹿島氏当主となった。 治時の没後、鹿島氏は兄弟相争う骨肉の内紛を繰り広げ、これに江戸氏や千葉氏など 周辺豪族が介入した。そのため、鹿島氏はかつての勢力を失い、戦国大名への脱皮を 遂げることはついにかなわなかった。 天正十八年(1590)の小田原の役に際し、鹿島氏は大掾氏一族同様豊臣秀吉のもとへ 参陣しなかったため、戦後その所領は佐竹氏に委ねられた。佐竹義重・義宣父子は鹿島 清房(清秀)ら行方・鹿島両郡のいわゆる「南方三十三館」と呼ばれる諸領主を太田城に 招いて、殺害した。佐竹軍が南下すると、城主不在の両郡の諸城は次々と陥落したが、 鹿島城には残された一族郎党が立て籠もって半月ほど持ちこたえたという。しかし、つい には落城し、鹿島氏も滅ぼされた。城も廃城となったが、旧城内に佐竹氏によって役所が 設けられた。また、清房の遺児伊勢寿丸は落ち延びて生き残り、後に徳川家康によって 伊勢神宮の総大行事として召し出された。再興鹿島家もまた、旧城内に居宅を設けたと される。 <手記> 鹿島城は、西に北浦、北に谷戸を望む丘陵の端にあります。鹿島神宮とは同じ丘陵上 にあります。細い土橋一本で東側とつながっており、他の部分は四面すべて急崖となって います。一見すると半独立丘のようにみえますが、東と南面は人工の堀と土塁と思われ、 もとは河(湖)岸段丘の北西端を利用した崖端の館と推測されます。この堀は非常に深く 豪壮で、鹿島城址の一番のみどころといえます。 現在、本丸一帯が鹿島城址公園として整備されています。本丸西端には城址碑が建て られており、ここからの北裏方面の眺望は絶景です。本丸からは、発掘調査によってさま ざまな遺物が検出されたようですが、残念ながら現在の公園内に、城のようすをうかがわ せるようなものは多くありません。公園の外周は、一段高い舗装されたウォーキングロード (とでもいうのでしょうか)となっていて、シニアの方々がランニングや早歩きに勤しんでおら れました。外周の土塁を利用したものとも考えられますが、詳細は不明です。ちなみに、 木原城址でも同様の城跡外周ロードがあったのですが、茨城県のブームだったりするので しょうか。 かつての鹿島城址は、南は上の地図にもある国道51号線まで、東側は鹿島神宮社域に 接するくらいの広さがあったと伝えられています。東端は神宮二の鳥居(現在の大鳥居) まであったともいわれているようですが、南端との兼ね合いを考えると、東端は宮中1丁目 と2丁目の境付近とするのが妥当と思われます。いずれにせよ、近世城郭に匹敵する規模 といえ、これが鹿島義幹の改修によるものとするならば、大掾宗家の居城府中城と並ぶ 常南の巨大城郭であったと推測されます。 |
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鹿島城址碑。 | |
本丸外周のウォーキングロード。 土塁跡か。 |
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本丸の堀と土塁。 | |
本丸の堀と土橋(奥)。 | |
本丸からの眺望。 |