木原城(きはら)
 別称  : 神越城
 分類  : 平山城
 築城者: 近藤利貞ないし近藤義勝
 遺構  : 曲輪跡、堀、土塁、櫓台、虎口、土橋など
 交通  : JR常磐線土浦駅よりバス
       「木原」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
          江戸崎土岐氏家臣近藤氏の城である。築城年については諸説ありはっきりしない。木原城の南の
         永巌寺の寺伝によれば、同寺は応永元年(1394)ないし同七年(1400)に創建された。この前後に
         木原城も築かれたとみるのが、もっとも早期の説である。
          また、同寺伝には、近藤氏元が永正元年(1504)に伊佐部村にあった居城を焼失し、「神越の城」
         へ移ったことが記されている。この「神越の城」が木原城を指すのか、また新たに築いたのかすでに
         あったのかなど詳細は不明であるが、これを木原城の築城年とする向きもある。同寺伝によれば、
         同三年(1506)に近藤利勝が「木原城主」となり、御殿を棟上し、神越村を木原村と改めたとある。
          永禄五年(1562)、土岐治英が木原城を修築し、近藤義勝を守将とした。永巌寺寺伝以外の史料
         に木原城が登場する最初のものであり、この時を築城年とする説もある。
          天正三年(1575)、小田氏家臣の上条城主江戸崎監物が佐竹氏に寝返り木原城を攻め落とした。
         しかし、監物は土岐氏家臣諸岡逸羽に攻め滅ぼされ、木原城も奪回された。
          同11年(1583)、小田氏が佐竹氏に降伏し、佐竹義重とその子義宣・蘆名盛重が木原城へ攻め
         寄せた。城はまたも落城したとされるが、同十七年(1589)までには再び奪還されている。
          同十八年(1590)の小田原の役では、土岐氏は北条氏側に属し、江戸崎城・竜ヶ崎城・木原城の
         3城に計1500騎が配された。しかし、豊臣軍の前に3城のなかで最初に降伏・開城した。戦後、土岐
         氏領は蘆名盛重に与えられ、盛重は江戸崎城に入った。木原城の廃城年については不明である。

       <手記>
          木原城は、霞ケ浦湖岸の舌状の段丘先端にあります。現在、本丸と二の丸一帯が城址公園として
         整備されています。広い芝生に花畑と、家族連れも子供たちも楽しめる広い公園で、ウォーキング用
         のレーンや障害物(平均台など)が外周を巡り、シニアの運動にももってこいです。同様のシニア用の
         ウォーキングレーンは鹿島城址にも見受けられ、茨城のちょっとしたブームなのかなぁなどと思ったり
         しました。ただ、こちらの方が距離が倍以上あり、また鹿島城址が土塁の上にレーンを作ってしまって
         いるのに対し、木原城址では土塁の内側に道が通っており、遺構にも優しいつくりとなっています。
          公園として素晴らしいこともさることながら、城跡としても以降の残存状況は極めて良好といえます。
         とくに本丸と二の丸は、とりまく土塁や堀はもちろん、土橋や櫓台、虎口など見ごたえ満点です。本丸
         の北東隅に祠があり、また二の丸の北西隅付近が土盛りによって城内最高所となっています。両方
         とも櫓台であったものと推測されます。
          永巌寺のあたり(上の地図の緑丸付近)まで城域だったとされていますが、二の丸と寺の間は道路
         や宅地、畑地などになっています。木原小学校東側に大手郭があり、遺構が残っているようなことが
         説明板に書いてありましたが、判然としませんでした。永巌寺には土塁の一部が残っており、かつて
         は境内を土塁が囲っていたようすが想起されます。
          永巌寺の南の丘は、旧館と呼ばれています。日暮れが近い上に登り口が分からなかったので登城
         は諦めましたが、縄張り図を一見しただけで木原城主城域とは年代が異なるであろうことが読み取れ
         ます。おそらく、旧館の名の通りもっとも古い遺構部分であると推測されます。
          木原城の特徴は、規模が大きいことです。曲輪ごとの面積は、むしろ土岐氏の居城江戸崎城よりも
         広いでしょう。本丸には櫓風の展望台が建てられていますが、これに登ってみればその大きさが実感
         できると思います。さらに縄張り図によれば、二の丸の外には総構えにしかみえない三の丸があり、
         この広さの城を守れるような兵力を土岐氏やまして近藤氏が動員できるとは思えません。このことに
         について、木原城は後北条氏の前衛基地となっていたのではないかとする説が有力視されています。
         たしかに、土岐氏は最終的には北条氏傘下に属し、同じ常陸国内にはやはり対佐竹氏の前線基地と
         なった逆井城があります。逆井城も、木原城と同様本丸から三の丸まで比較的広い曲輪が連続する
         という特徴をもっています。こうした事実から、史料にはみられませんが、木原城が北条氏に取り立て
         られ改修を受けたという可能性は説得力があるように思われます。
          本丸の中心部から、本丸を南北に分けるような堀が検出され、現在は埋め戻され道として地表復元
         されています。この堀は15世紀には存在していたということですが、近藤氏が築いたもともとの木原城
         は、現在の本丸かせいぜい二の丸までの範囲を城域とするもので、現在の本丸は件の堀によって2つ
         の郭に分けられていた可能性も考えられると思います。さらにいえば、現在は一体となっている主城域
         と永巌寺、旧館はかつてはそれぞれ別個の城館であり、永巌寺境内に近藤氏の居館があり、旧館は
         初期の詰城であった。そして土岐氏の命により、対小田氏の備えとして現在の木原城本丸の位置に
         新城が築かれた、とすると一応整合性が保てるように思います。

           
 木原城本丸のようす。
櫓風展望台から本丸及び霞ヶ浦を望む。 
 展望台から本丸虎口を望む。
本丸中心部の堀跡に地表復元された道。 
 本丸の土塁。
本丸櫓台から堀を隔てて二の丸櫓台土塁を望む。 
 本丸の空堀。
本丸の土橋と虎口、土塁。 
 二の丸の土塁。
永巌寺。 
 永巌寺境内の土塁。


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