形原城(かたはら) | |
別称 : 稲生城 | |
分類 : 平山城 | |
築城者: 松平与副 | |
遺構 : 曲輪 | |
交通 : 名鉄蒲郡線西浦駅徒歩15分 | |
<沿革> 久安五年(1149)ごろに、源野義光の三男義清の次男にあたる源師光が形原の下司職となり、 城館を築いたのが始まりとする伝承があるが、確証はない。 戦国時代に入って勢力を急拡大した岩津城主松平信光は、四男ないし五男の与副を形原に 入れ、形原松平家を興した。一般には、形原城はこのときに与副が築いたものとみられている。 今川義元の勢力が三河に及ぶと、4代松平家広は今川氏に従った。しかし、近年の研究では、 天文十六年(1547)に義元が、日近城主の奥平貞友に形原を与えたことが明かとなっている。 家広が今川方の松平宗家と対立したために形原を逐われた可能性が指摘されているが、詳細 は明らかでない。貞友は弘治二年(1557)に今川家に叛旗を翻して敗れたことから、このときに 家広が旧領に復帰したと考えられている。 永禄三年(1560)の桶狭間の戦いを機に松平元康(徳川家康)が自立すると、家広も松平宗家 に従った。義元の跡を継いだ氏真は、これに怒って形原松平家からの人質を形原城下の稲生の 浜で串刺しに処したともいわれる。 翌永禄四年(1561)には、たびたび争っていた隣領の深溝松平家との対立から、家広は再び 今川氏に降伏した。しかし、今度は同じく領地を接する寺部城主小笠原広重と争うこととなり、 結局同年中に元康のもとに帰参した。 家広の跡は、子の家忠が継いだ。家忠の母於丈の方は、家康の母於大の方の姉で、家康と 家忠は母方の従兄弟同士という関係にあったことから、形原松平家は徳川家中で一定の地位 を保持した。天正十八年(1590)に家康が関東へ移封となると、家忠の子家信は上総国五井に 5千石を与えられた。形原城は、このときにいったん廃城となったものと推察される。 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦い後に、家信は旧領形原に復した。城もこのときに再興された ものと思われる。元和四年(1618)、家信は1万石加増されて形原藩1万5千石の大名となった。 しかし、翌五年(1619)には高槻藩へ移封となったため、ここに形原城は完全に廃城となった。 <手記> 形原城は形原港を北に望む丘の上にあり、当時は三方を海に囲まれた岬の要害だったそう です。西側の峠道沿いの、樹脂工場北側に城山へ通じる道があります。 城山は稲荷神社の境内となっていて、山頂の社殿周辺が詰曲輪と思われます。その下には 事実上の主郭と思しきやや広い曲輪があり、ここに城址碑や説明板が置かれています。その 一角に「お妙塚」があり、塚の裏手には堀ないし切岸跡のように見える人工の地形が見受け られます。お妙塚は、身を挺して幼少の家信を暗殺者から救った乳母のお妙が、手厚く葬られ たところとされています。 峠道を挟んだ西側にも、北古城や南古城、北馬場、南馬場といった字名が見られ、最盛期 には光忠寺のあたりまで城域が及んでいたものと推測されます。光忠寺は、与副の次弟に あたる大草城主大草松平光重の開基とされ、形原松平家の菩提寺にもなっています。とは いえ、こちらは畑地や住宅地として開発されており、城跡の痕跡をうかがうことはできません。 ところで、個人的にとても気になるのが、形原松平家初代の松平「与副(ともすけ)」という 名前です。当時の諱としてとても特殊であるうえ、松平家をはじめ三河国内の諸家にも「与」 や「副」の字を用いている例はみられません。ここで、『寛政重修諸家譜』には「与嗣」の名が あるほか、「興嗣」という別名も伝わっているそうです。すなわち、「興」→「與」→「与」、「嗣」 →「副」という書き写しミスが重なり、「与副」という不思議な名前が伝わってしまったのでは ないかと、個人的に推察しています。ただ、もしそうだったとしても、やはり「興嗣」という諱は 松平家にあっては類例がないので、その字を選んだ理由については謎のままです。 |
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城址碑と説明板。 | |
主郭から詰曲輪を見上げる。 | |
詰曲輪の稲荷神社本殿。 | |
お妙塚。 | |
お妙塚裏手の切岸ないし堀切状地形。 | |
城山からの眺望。 | |
城山から北古城・南古城方面を望む。 | |
北古城のようす。 |