桂城(かつら)
 別称  : 中山城
 分類  : 山城
 築城者: 桂広澄
 遺構  : 曲輪、堀、土塁
 交通  : JR可部線可部駅からバスに乗り、
      「桂峠」下車徒歩5分


       <沿革>
           毛利家重臣桂氏の居城である。桂氏は毛利氏の有力庶家である坂広明の子・広澄が、桂村に
          分家したことにはじまる。同じ広明の子ないし養子の坂広秀が、毛利元就の家督相続に反発して
          元就の異母弟・相合元綱の擁立を図り誅殺されると、広澄は責任をとるとして元就が制止したにも
          かかわらず自害して果てた。広澄の子・元澄も桂城で自刃しようとしたが、元就の説得により思い
          とどまり、引き続き毛利家臣として仕えている。
           その後の元澄は、弘治元年(1555)の厳島の戦いで桜尾城将として重要な役目を果たすなど、
          元就の股肱之臣として重きを成した。元澄が没すると五男の広繁が跡を継ぎ、引き続き桜尾城主
          を務めたとされる。桂城には一族ないし城番が置かれたとみられるが、詳しい扱いは定かでない。
           遅くとも、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利家が安芸国を失った際に廃城となったと推測
          される。


       <手記>
           桂元澄の直系子孫が大日本帝国首相を務めた桂太郎(諱は清澄)とされ、また桂小五郎(木戸
          孝允)も同族とされています(孝允自身は藩医和田家の出身)。上述の通り元澄自身も重臣中の
          重臣であり、桂城は毛利氏の歴史にとって重要な史跡であるといえるでしょう。
           江の川沿いの独立丘にあり、北麓の国道沿いに大きな看板が建っているので訪城は容易です。
          大きく中央・西・東の3か所に城域が分かれており、とくに西と中央の曲輪群はそれぞれ別個の城
          として機能し得る独立性を具えています。最高所は中央部で、規模もこちらが最も大きくかなりの
          兵力を収容できます。主郭から北東尾根筋に雛壇状に曲輪や堀切を重ねていますが、先端には
          堀がないなど籠城するには不完全な点もみられ、どこまで実戦を意識していたのかは疑問が残り
          ました。
           他方で西曲輪群は、兵の駐留スペースはやや狭いものの、堀切や竪堀は中央部よりもしっかり
          整備され、より実戦的な造りに見えます。天文九年(1540)の吉田郡山城の戦いに際しては、近隣
          の鈴尾城が防衛拠点となったものの桂城の動静は不明で、さらに当時の郡山城は拡張前だった
          と考えられています。そのため合戦時には西曲輪群のみの城で、郡山城の大拡張に倣って改修を
          受けたとみるのが自然でしょう。
           東曲輪群は桂大仙神社境内を主郭とする出丸で、背後に堀切跡も見受けられます。一番の特徴
          は最下段の広大な削平地で、居館ないし根古屋が営まれていたのではないかと推察されます。

 桂城西曲輪群(右手)と中央曲輪群(左手)。
星ヶ城跡から桂城跡を俯瞰。 
 西曲輪群主郭背後の堀切。
西曲輪群の主郭と土塁。 
 主郭の付壇。
付壇下の腰曲輪。 
 北側斜面の竪堀と堀切。
北西尾根の堀切。 
 中央曲輪群背後の堀切状地形。
中央曲輪群の主郭後部。 
 同じく主郭のようす。
同上。 
 主郭下の堀切。
第2郭のようす。 
 第2郭下の堀切。
第3郭。 
 第3郭先の腰曲輪。
前端の曲輪。 
 東曲輪群(桂大仙神社)を見上げる。
東曲輪群最下段の広大な削平地。 
居館ないし根古屋跡か。 
 同上。
腰曲輪と主郭切岸。 
 主郭の桂大仙神社。
主郭背後の堀切跡。 
 同上。
主郭北側中腹の帯曲輪と仕切り土塁。 


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