鈴尾城(すずお) | |
別称 : 福原城 | |
分類 : 山城 | |
築城者: 福原広世 | |
遺構 : 曲輪、堀、土塁、井戸 | |
交通 : JR可部線可部駅からバスに乗り、 「大和重工前」下車徒歩20分 |
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<沿革> 毛利家重臣福原氏の居城である。福原氏は南北朝時代に吉田荘に土着した毛利元春の五男・ 広世が、福原村に分家したことにはじまる。鈴尾城も、永徳元/弘和元年(1381)に広世によって 築かれたとされる。また広世は、福原姓を名乗る前に備後国の国人で同族の長井貞広の養子と なっていた。 元春の孫・光房の代以降、坂氏らをはじめとする庶家が台頭して、たびたび主家と対立したが、 福原氏は一貫して主家側に立って両者の仲立ちに努めた。広世の孫・広俊(8代)の娘は光房の 曽孫・弘元に嫁ぎ、次男・松寿丸(後の元就)は鈴尾城で明応六年(1497)に生まれたとされる。 天文九年(1540)の吉田郡山城の戦い(郡山合戦)において、広俊の孫・広俊(10代)は嫡男・ 貞俊を郡山城へ派遣し、自身は鈴尾城に籠って尼子勢に備えた。青山・光井山に本陣を移した 尼子軍や、佐東銀山城主の武田信実らとの間で攻防戦があったといわれる。 福原氏はその後も毛利家重臣として続き、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで毛利家が安芸を 失うと、貞俊の孫・広俊(13代)は主家に従って長州へ移り、鈴尾城も廃城となったとみられる。 <手記> 鈴尾城は江の川に臨んで半独立丘のようにポッコリと突き出た峰上にあります。周辺には桂城 や天神山城、星ヶ城といった毛利氏重臣の居城が集まっていますが、そのなかでもとくに築城に お誂え向きといった地形で、福原氏がいかに古くから毛利家中で重きをなしていたのかが容易に 見て取れます。 元就の誕生伝説地ということもあり、北東麓には駐車場も完備。説明板に従って本丸まで道が 通じています。登り始めてまもなく居館跡とされる広い削平地があり、ここに立派な石碑が建って いました。 鈴尾城で目を引くのが北東尾根のV字状堀切と、水の手の井の壇です。前者は毛利氏の城に 時々見られる以降ですが、尾根の両サイドに落ちる竪堀や堀向こうの土塁などもしっかり残って いて見応えがあります。後者は当時のものかは分かりませんが、石組みの井戸枠があります。 本丸は前後に数段の腰曲輪が連なる単調な構造で、毛利家中きっての重臣の居城としては、 やや規模が控えめにも感じました。このあたりは比較的新参の桂氏などと異なり、福原氏が押し も押されぬ重鎮ということで、過度に城の規模を誇る必要がなかったのかもしれません。 |
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桂城下から鈴尾城跡を望む。 | |
登城口のようす。 | |
居館跡と誕生伝説地の石碑。 | |
北東尾根のV字状堀切。 | |
同堀切の土塁。 | |
井の壇。 | |
井の壇の石組み井戸跡。 | |
腰曲輪。 | |
同上。 | |
本丸下の帯曲輪。 | |
本丸の曲輪群。 | |
本丸最上段と石碑を見上げる。 | |
本丸背後の腰曲輪。 |