川窪の城山(かわくぼ)
 別称  : 谷の城、河窪城
 分類  : 山城
 築城者: 河窪信実か
 遺構  : 土塁、削平地
 交通  : JR甲府駅からバスに乗り、
      「昇仙峡滝上」下車徒歩1時間


       <沿革>
           武田信玄の異母弟にあたる兵庫介信実は、河窪村を領して河窪氏を称した。川窪の
          城山は信実によって築かれたとみられるが、確証はない。
           元亀二年(1571)に、同じく信玄の異母弟である松尾信是が死去すると、信実の子
          信俊がその遺領を継承した。信実は、天正三年(1575)の長篠の戦いで鳶ヶ巣砦を
          守備して戦死し、跡を継いだ信俊は同十年(1582)に武田氏が滅亡すると徳川家康に
          仕えた。川窪の城はこのときまでに廃されたものと推測されるが、詳細は不明である。


       <手記>
           川窪の城山は、昇仙峡を挟んで羅漢寺山と対峙する比高300m強の峰上にあります。
          城内には電波塔かなにかの通信施設があり、峰の付け根をまたぐ能泉さくら並木道と
          いう林道から歩いて行けます。
           見通しの利く林を抜けると、突如目の前に横一文字の長大な土塁が現れます。この
          土塁は2段になっていて、2段目の上に先述の施設があります。城の遺構と見えなくは
          ないのですが、あまりに工事量が多いわりに構造が単純なため、通信施設建設に伴う
          現代の造成と見ることもできます。『日本城郭大系』には土塁については触れられず、
          堀切が残るとあるのですが、逆に堀らしきものは認められませんでした。
           もしこの土塁が遺構とすると、これによって囲まれる削平地の面積はかなりのものと
          なり、昇仙峡周辺の人口ではとても守り切れるものではありません。信玄の実弟の城
          だからといっても、規模ばかりが大きく有効性に疑問が持たれます。この点、『大系』
          では「躑躅ヶ崎館の北方の守り」としていますが、甲府を捨ててここに逃れて再起を
          図るというのは、ちょっと現実的ではないように思います。
           個人的には、いくら所領だからといって、信実も実際には川窪には住んでいなかった
          のではないかと感じました。それくらい山深いところです。推察するに、川窪のすぐ北西
          には金峰山の山岳信仰の拠点である金櫻神社があり、その社家を中心とする御岳衆
          は神社の向かいにある御岳の城山に拠っていました。昇仙峡から金峰山にかけては、
          今日の伝統工芸につながる水晶の採掘地とされ、これらの情報および資金のソースを
          押さえることが、川窪の城山と河窪氏に与えられた使命だったのではないでしょうか。
           昇仙峡は今でこそ観光名所ですが、当時はおそらく往来に適した地形ではなかった
          と思われます。周辺の集落の分布をみると、かつての金峰山への道は、平瀬の烽火台
          から尾根伝いに竹日向の集落を抜け、高成の集落から高成川を遡り、川窪の城山の
          付け根で峠を越えて金櫻神社へと下りていたものと考えられます。したがって、川窪の
          城山をスルーして金峰山へ向かうことは困難であり、そこにこの城の意義があったので
          あって、要害城のような躑躅ヶ崎館の詰城といった役割は、なかったものと個人的には
          考察しています。

           
 荒川ダム越しに川窪の城山を望む。
1つ目の土塁。 
 同上。
1つ目の土塁上の削平地。 
 2つ目の土塁。
2つ目の土塁上の施設。 
 先端部にもう1つある施設。
土塁の外側に並んでいた石祠。 


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