北真志野城(きたまじの)
 別称  : 権現沢城、本城
 分類  : 山城
 築城者: 金子氏ないし胡桃沢氏
 遺構  : 曲輪跡か
 交通  : JR中央本線上諏訪駅よりバス
       「蓼宮橋」バス停下車徒歩5分


       <沿革>
           『諏訪神氏系図』によると金子民部の居城とされているが、伝承では胡桃沢氏の城とも
          いわれる。ほかに真志野氏の存在も指摘されているが、史料上では確認されていない。
          金子氏については、真志野の東の金子城との関連が考えられるが、詳細は不明である。
          胡桃沢氏は、応永七年(1400)の大塔合戦で、有賀氏麾下の将としてその名がみられる。
           しかし、北真志野城自体が一次史料に現れることはなく、築城や廃城の時期は不明で
          ある。


       <手記>
           北真志野城は諏訪盆地にせり出した尾根の先端に築かれ、現在城域の大部分は中央
          自動車道によって破壊されています。建設に伴う発掘調査では中世の住居跡が認められ
          たということです。
           城の残った部分は西山公園となっていますが、碑や説明板など城跡を示すようなものは
          ありません。公園全体がパターゴルフのコースとなっていて、至る所が削平地状に小刻み
          に均されています。そのため、城の曲輪を利用したものなのか、あるいは公園化によるもの
          なのか、判別は困難です。公園から中央道を挟んだ西側も城域ということですが、こちらも
          一面畑地化しているため、遺構の確認は難しいです。
           また、城山の北東裾には蓼宮社があります。社殿下の境内は真志野集落と街道を一望
          できる高台にあたり、居館を営むには相応しい場所であるように思われます。
           『日本城郭大系』では「有賀城の支城かと考えられる」としていますが、根拠は不明です。
          北真志野城は、どちらかといえば有賀城よりも南の大熊城に地理的条件が似ています。
          北隣には古代寺院があったとされ、眼下には諏訪湖西街道が走っています。また、権現沢
          に沿って西上すると峠を越えて箕輪や辰野へ抜けることができ、有賀峠の脇往還があった
          ものと推測されます。すなわち、真志野自体が古くから独立した集落であったと考えられ、
          北真志野城が有賀城の支城に甘んじる理由はないように思われます。したがって、城も古く
          からの領主の居城であったと考えた方が良いのではないかと推察されます。
           また、南真志野城に対して北真志野城と呼ばれていますが、両者の関連についても不明
          です。

           
 北真志野城現況(西山公園)。
西山公園頂部(左)と中央高速道路(右)。 
 公園の中でも原地形に近いようにみえる削平地。
 腰曲輪跡か。
蓼宮社。 


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